谷山浩子さんの「よその子」という名曲がある。歌詞に、「世界から拒絶された少年が世界全体を焼き滅ぼそうと考える」くだりがある。そうして「他者を徹底して拒絶する心は、自分自身をも拒絶せずにはいられない」。
「自己疎外の果ての加害行為」というと2008年の「秋葉原通り魔事件」を思い出す。当時25歳の元自動車工場派遣社員が秋葉原の歩行者天国にトラックで突っ込み、その後17人をダガーナイフで立て続けに殺傷した事件だ。事件前のネット掲示板には、「(自分のような)不細工には人権などない」といった彼自身の激しい自己否定と絶望感が書き込まれていた。
現代のネオリベラリズムという「システム」は、かれらに「自己責任」という規範を要求する。そして、自己責任を果たせず社会に迷惑をかける「醜い」存在として、被害者ではなく加害者としての意識がいっそう強化される。その中で自らの存在意義を見失い、「なんのために生きるのか」が見えなくなる。
苦しさを自分のせいばかりにせず、自分を苦しめる社会システムやそれを解決しない政治家を批判するような自己中心性=「ポジティブな被害者意識」を持ってほしい。しかし著者は、「ひきこもり」の専門家であるからこそ、それが極めて難しいこともわかっている。
「ひきこもり」は、「6カ月以上社会参加をせず、精神障害を第一の原因としないこと」と定義される。どんなに小さなつまずきがきっかけであっても、「いったんその状態に入ると、本人の意思とは裏腹に、自力で抜け出すことが難しくなり、ときには何十年にもわたって長期化する」。そのせいで、もともと低い自尊感情がさらに低下するのが一般的だ。
著者はかれらを「困難な状況にあるまともな人」と捉えている。いじめやブラックな労働環境など、「異常な状況」に対する「まともな反応」として、しばしば不登校やひきこもりが生じるからだ。「まとも」だから、ひきこもりが家族の負担になったりすることを自覚している。そうして、「働かざるもの食うべからず」「権利を主張して義務を果たしていない」といった「正論」の価値観がかれらを追いつめる。
「自分自身には何の価値もない」という信念、確信をもつのは、ひきこもりの人だけではない。社会的に成功している人の中にも存在する。かれらは「自己否定的な言葉を口にすることで、自分を傷つけ続けている」。自分がダメであることに誰よりも自信があり、むしろそこには「本当は自分を大切にしたい」という自己愛が発露しているのではないか。
自分自身についていつも考え続けているこの逆説的な感情を著者は「自傷的自己愛」と呼んでいる。
ハインツ・コフートの自己心理学では、「健全な自己愛は人間の心身の健康に欠かせないもの」と定義する。彼は、それまで否定的に捉えられてきた自己愛の重要性をもっとも緻密に理論化した。
コフートは人間の一生は自己愛の成熟過程であると考えた。そこで重要になるのが、赤ん坊にとっての母親のような、「自分の一部として感じられるような他者」、「自己-対象」との関係だ。人間は、さまざまな「自己-対象」の能力、機能を取り込むことで複雑化し、安定した構造を獲得していく。
発展途上の自己は、「向上心(野心)」と「理想」、すなわち人生のエンジンとゴールという二極構造になっている。大人からの肯定的な反応によって、「子どもの野心は、現実的で成熟した向上心へと変化していく」。逆に共感的ではない接し方で子どもが深く傷つくと、そのトラウマが自己愛の発達にブレーキをかける。
子どもは理想化された親のイメージをもつが、親からの反応がいつも期待通りとは限らない。コフートは、そこに生まれる「適度の欲求不満」をことのほか重視する。子どもは欲求不満を感じて自分をなだめるやりかたを学び、それが自己の成熟につながるのだ。この関係は、生徒と教師、当事者と支援者などの間でも見られる。
理想的な人間になるには、家族以外の他者と接点を持ち、「生きる上で必要な『スキル』を獲得」しなくてはならない。野心も理想もスキルも、「関係性の中でしか血肉化され得ない」とコフートも考えていたはずだ。
3,400冊以上の要約が楽しめる