人間には、その行動を突き動かしている無意識の自動化されたシステムがある。これを「生存適合OS(オペレーションシステム)」と呼ぶ。このOSの目的は、「痛み」を避けて生きることである。社会を生き抜けるように最適化されたこの脳内のシステムによって、我々人間は、無自覚に規定された行動しかできなくなっている。
この自動化されたシステムから人間の考え方や行動を解放したい。たとえば、映画『マトリックス』の仮想世界では、誰もが適合OSに行動を支配されている。この支配から抜け出すためには、「自分はシステムの中で知らないうちに自動的に駆動しているのだ」ということを、他ならぬ自分自身が自覚するしかない。どうすればそれができるのかを考えた末にたどり着いたのが、「対話によってその構造(メンタルモデル)を明らかにし、システムを俯瞰する」という方法だ。水槽を初めて外から眺めた金魚のように、「わたしはこんなところを泳いでいたのか」と気づけるようになる。
メンタルモデルに気づく基本となるのは対話である。最も重要なのは、相手の潜在意識の中にある真実を聴くこと、すなわち問いを立てる力だ。この対話のプロセスを通じて、知らないうちに従ってしまっている生存適合OSから自らを解き放つ。無意識下にある自分のシステムを顕在化させることで、日々の自分が無意識的に一体どのような行動をしているのか気づくことができる。
人間は、幼い頃に体験した「痛み」を避けるための信念を無自覚に持っている。その信念から行動が自動的につくり出される。成功者でも、「自分は認めてもらえない」という無意識的な信念が原動力になっていたりするのだ。知らず知らずのうちに、自分の日々の行動を「良いことだ」「正しいことだ」と正当化してしまう。
対話の力で、これまでシステムによってブロックされていた痛みを感じられるようになると、自分自身を突き動かしていたOSではない、本質的な意味での自分を取り戻すことができる。どこか満たされない、虚しいという違和感を形づくっているシステムに自分で気づき、新しい体験に向かっていくためのものだ。
痛みの回避行動には「克服」と「逃避」の2種類がある。克服とは、この痛みを二度と感じなくても済むように努力する行動を指す。一方逃避は、「もういいや」と割り切ってしまうような行動のことだ。たとえば、「お前はバカだ」と言われる痛みに対して、「もう二度とバカなんて言わせない!」と必死に勉強するのは克服型、「どうせ私はバカだから、何を言われたって構わない。そのかわり何も期待しないで」と振る舞うのが逃避型だ。いずれにせよ、バカにされる痛みを避けようと行動している点は同じである。
現代社会では、克服型が過剰に評価される傾向にある。だから、会社の上司にはこのタイプの人が多い。克服型のリーダーは、本当はやりたくないことに対してもその不安や恐れを克服することで認められてきた。一方「ゆとり世代」の若者は「ありのままで良い」と教えられてきたため、逃避型の人が多い。そうした部下たちが口にする「やりたくない」「できません」という言葉は、克服型にとって過去の自分が「言いたくても言えなかったセリフ」であるため、腹が立ってしまう。そこにパワハラが生まれる。
痛みを回避したいという根っこが同じであることを認識し、モノの見方を変えるためには、自分の振る舞いの原因につながる構造を理解しなくてはならない。そのヒントとなるのが、次に説明する4つのメンタルモデルである。
メンタルモデルとは、人々の心の奥底にある「痛み」を避けようとしてつくられた、この世界で生き延びるための信念を指す。これらは次の4つのモデルに分類することができる。
「価値なしモデル」は、「自分には価値がない」という痛みをもつ。何か価値を出さないと自分の価値を認めてもらえないと思っている。
「愛なしモデル」は、「自分は愛されない」という痛みをもつ。こんなに尽くしても自分のありのままでは愛してもらえないと感じている。
「ひとりぼっちモデル」は、「しょせん自分は一人ぼっちだ」という痛みをもつ。人が去っていく、離れていく、つながりが絶たれるという分離の痛みを感じる。
「欠陥欠損モデル」は、「こんなにやってもやっぱり自分はダメだ」という痛みをもつ。自分には決して埋まらない決定的な欠陥があるという現実が繰り返されている。
メンタルモデルは、4つのモデルのうちどれか1つだけを持っているというものではない。誰もが全部の要素を持っていて、そこに濃淡がある。ただ、どれかの痛みが癒えても最後に残る信念があり、それが根っこになるモデルというだけだ。自分がどのモデルに当てはまるのかを特定する必要はない。
4つのモデルがあることを意識し、システムを俯瞰する機会が増えれば、自分の根っこにあるメンタルモデルが見えるようになる。
これからの時代は、「価値なしモデル」の人たちが淘汰され、「欠陥欠損モデル」が台頭してくる方向に向かっていると感じる。
一昔前の企業では「価値なしモデル」の人材が主流であった。企業は、期待に応えたら評価し、必要な存在だと認める人のつかい方をしてきたからだ。個ではなく能力を欲する組織の仕組みに、価値なしモデルの人々は率先して応え、自分を空っぽにする。しかし、このタイプは常に誰かからゴールを与えられる必要がある。個人の主体性が問われる世の中になると、「自分のない人間だ」と評価されなくなっていく。
一方「欠陥欠損モデル」の人材は、人の多様性を「美しさ」と認識することができる。このような人がティール型組織をつくっていける。すなわち、職務上の上下関係や細かな社内ルールにとらわれず、みんなの良いところが引き出されて自分らしさを発揮できるようになる。みんなが自然とその人の周りに集まって自由に動ける。
「愛なしモデル」の人は、幼いときに「あるはずの愛情表現がなかった」という痛みの体験がある。その「つながりの欠損」を埋めるために「つながりを感じて愛されたい」と思っている。見てほしいし、自分のことをわかってほしいという思いが強い。そのため、健気に他人に尽くし、細かいところに目を配る奉仕タイプの人が多く、看護師や介護、福祉の現場スタッフによく見かける。でも「愛されるために」という感覚のままでは愛の欠乏は埋まらない。人に愛されようとする前に、ありのままの自分自身を愛することが必要なのだ。
「ひとりぼっちモデル」は、基本的に人間嫌いだ。人から嫌われることを気にしないので敵をつくりやすい。その一方で、ビジョンを掲げる太陽のような役割を果たすため、組織においてはイノベーター的な立ち位置を担う。
メンタルモデルの4つの「痛み」の奥には、個人のライフミッションがある。人間が無意識に精巧な生存適合OSをつくり出す理由は、4つの欠乏感の向こう側に見える「本当の世界」を願っているからだ。
愛なしモデルは、無条件の愛を分かち合いたい。欠陥欠損モデルは、すべての多様性がそのまま受け入れられる安心・安全な世界をつくりたい。ひとりぼっちモデルは、大いなる生命につながって人間が生きるというワンネスを取り戻したい。価値なしモデルは、行動成果ではなく、存在そのものに価値がある生き方をしたい。これらは、すべての人間が欲している世界でもある。
我々の日常には不本意な出来事がつきものであるが、そこで感じる痛みのすぐ裏側に、この世界で本当にやりたいことがある。自覚の濃淡はあっても、痛みがない人はいない。これまで抱えてきた痛みを理解できれば、過去の記憶も癒やされるし、人生の捉え方も変わる。
生存適合OSに突き動かされている無意識が分離した状態から、統合状態に至る過程には、それぞれ関門がある。たとえば愛なしモデルの統合前では、他人を不快にさせたり失望させたりすることを極度に避けようとする。自分を大事にするために相手をがっかりさせられるかが、関門となるのだ。しかし、それを乗り越えられれば、自分の純粋な思いで相手に愛情表現を伝えることができるようになる。痛みの向こうの世界観を認識できれば、人間は必ず統合の方向に向かっていくのだ。
いまはこのような考え方に沿うように、ユニバーサルに意識の変化が進んでいる。たとえば環境活動家のグレタ・トゥーンベリさんは、ひとりぼっちモデル特有の気質で、「生態系を破壊してでも自分さえよければいい」という世界が感覚的に耐えがたいから、声を上げているのだ。
価値なしモデルの人の中にも、他人軸で生きていたシステムから降りて自分が生きたいように生きていこうとしている人が、少しずつ出てきている。これまで組織の都合に合わせてきた人々が、自分を抑圧することを止め、自らにとって価値ある人生を歩み出せば、この社会のシステムは大きく変わり得る。働き方改革やテレワークなどの施策はその後押しをしているだろう。
今後、生き方を見直したいという思いを持つ人の数は、間違いなく増えていく。
メンタルモデルが自動的に避ける「痛み」を完全になくすことは難しい。「痛みはなくならないし、なくそうとする必要もない」ということを受け入れるのが、統合への第一歩である。痛みを避けようとするのは脳の基本的な働きだが、「痛みを感じないようにしよう」という抵抗感を和らげることは可能なのだ。
コミュニケーションにおいても、自分と相手それぞれの認知のフィルターを意識していれば、自分も相手も受容し、お互いを理解する方向に進んでいける。自己理解があれば自分を赦せるようになるので、他人の行動の奥にある背景も深いところで理解できるようになる。メンタルモデルがどのような回避行動を無自覚に起こさせているかについてのリテラシーを持っていれば、人間関係は非常に楽なものになるだろう。
自己肯定感と自己受容は、4つのメンタルモデル全てにおいて必要なものだ。本当の自己肯定感とは、自らがありのままの状態で価値があり、愛されているという確信を持っていることを指す。しかし、現在の子育てや教育のベースはこの考え方ではない。
幼い子どもは、「他人にどう思われるか」と考える自我も発達していないから、自分の表現を自由に解放できる。そこに「これをやったら結果はどうなるか」という思考が入ると、「不快なことを避けるためにはどうすればよいか」という行動が生まれる。
人間は「周囲の環境をコントロールしよう」と自然と戦い、人間同士でも戦い続けてきた。これから先の社会では、環境を受け入れて、他の人や問題の中でどう生きるのかを問い直すことが求められる。
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