著者は、2016年に、十三代目中川政七を襲名した。中川政七商店当主として、「日本の工芸を元気にして、工芸大国日本をつくる」という「100年の計」を立て、日々邁進している。
日本の工芸を取り巻く環境は厳しくなるばかりである。後継者不足、先が見えない業界の現状を苦にして、廃業する人が少なくない。工芸は、分業を基本として成り立つ。たとえば漆器なら、木地師、下地師、漆を塗る塗師など、何人もの手仕事が合わさり、器ができあがる。なので、1人か2人の作り手の廃業が取返しのつかない結果を招くことがある。「今、自分の周りで起きていることは、日本の工芸と工芸品とともにある豊かな感性が生み出した日本の暮らしの危機にほかならない。そう思ったら、日本の工芸を元気にしたいと心から思った。」と、著者は語る。
工芸の衰退は日本だけの問題にとどまらず、たとえば刃物の町として知られてきたドイツのゾーリンゲンも、深刻な高齢化により、産地としての存続が危機に瀕している。しかし、世界のこうした状況は日本にとってチャンスであるとの見方もできる。日本に、もし100年後にも300の工芸品の産地が残っていたとしたら、世界に工芸大国としてのプレゼンスを大いに示せるだろう。
このビジョンを掲げるまで、そして掲げてから、著者は、変化を恐れず、試行錯誤を繰り返してきた。
著者が、富士通に勤めたのち、家業の中川政七商店に入社したのは、2002年のことだ。しばらくして麻小物を売る第二事業部をのぞいてみるようになると、著者の目に驚くべき実態が明らかになる。生産管理という概念があまり根づいておらず、売れ筋商品はつねに欠品していた。業務効率も課題であった。製品に使う麻ひも20メートルを切るために、パートの女性たちは50センチを40回折り返して切っていたのだという。
結局第二事業部をまかされることになった著者が、やり方を改めようとすると、批判は受けなかったが、社員が一人、また一人と会社を去っていった。
次に著者が取り組んだのは、売上と利益の増額だった。
中川政七商店は、卸売りを主としていたが、卸売りでは顧客との接点がないので最終的なコントロールがきかないし、取引先の売上げ次第のところがあり、限界が見えていた。そこで、同社は思い切って小売り事業に乗り出すことにした。小売り展開は、ブランドづくりに力を入れるという考えからも必須であった。
「中小メーカーこそもの売りを脱却して、ブランドづくりにシフトしなければならない」、というのが著者の持論だ。中小企業は、大企業のように広告宣伝費をかけるわけにいかないし、交渉で弱い立場に立たされることもある。また、そもそも少ない人員でやっているので、十分な営業力の確保も難しい。したがって、ブランディングによって、商品や会社そのものに「下駄」を履かせて、顧客や取引先から選ばれる存在になる必要がある。
そうして培った中川政七商店のブランドを顧客に直接伝える場が、小売りの現場、つまり店舗である。ブランドを構成する要素のうち、店の雰囲気やスタッフの接客が占める割合は大きい。小売店を持つことで、消費者とコミュニケーションをとり、中川政七商店の価値観への共感を抱く人を増やし、結果としてブランド力を高めることができるのだ。
折しも、東京、玉川高島屋ショッピングセンターと伊勢丹新宿店のオファーが舞い込み、著者は出店を決断した。中川政七商店は、製造小売りに対応するシステム構築に長い時間をかけて取り組むことになるが、工芸の分野でSPA業態を確立した先駆者とみなされることになった。
著者は、自分が描いた地図の上で社員各人が力を発揮すれば、それが組織の力につながると考えていた。そのため、具体的な指示は出すものの、それによって得られる成果を伝えるということはしてこなかった。しかし、会社を成長させていく過程のなかで、あるとき、スタッフに「社長が考えていることがわからない」と言われてしまう。
そのできごとをきっかけに、中川政七商店が何を成し遂げようとしているのかというビジョンと、それを実現する上で重視する価値観をわかりやすい言葉で伝えて共有しなければならないと考えるようになったという。
ビジョンを社員一人ひとりに納得してもらい、同じ方向へ進んでゆくための仕掛けとして考え出されたのが、「こころば」と「しごとのものさし」である。
3,400冊以上の要約が楽しめる