人には無限の可能性がある。どんな「生まれ」であっても、あらゆる選択肢を現実的に検討できる機会があるべきだ。だがこの社会では、出身家庭と地域という本人にはどうしようもない初期条件(生まれ)によって、教育機会に格差がある。それは最終学歴に繋がり、収入・職業・健康などのさまざまな格差の基盤となる。つまり20代前半でほぼ確定する学歴で、その後の人生が大きく制約される現実が、日本にはあるのだ。
戦後70年、日本社会が大きく変わってきたことに異論がある人はいないだろう。産業構造は大きく転換し、教育を長い年数受ける人も増え、4年制大学への進学率は2009年に50%を超えた。
一方で、生まれ落ちた社会階層によって人生が制限されるという点で、日本社会は大きく変わっていない。高度成長期、バブル経済とその崩壊、長期景気低迷と、社会が大きく変わっても、相対的な格差は基本的に変わらず存在している。
出身階層、出身地域による格差が生まれるメカニズムのひとつとして、「教育熱」がある。SES(世帯収入、親学歴・文化的所有物と行動、職業的地位などの指標化によって表される社会経済的地位)が高いと、教育により大きな価値を置く傾向がある。実際に親が大卒者の場合、子どもに家庭教師をつける、塾に通わせるなど、学校外教育に積極的だ。こうした傾向は、三大都市圏の居住者にも同様に見られ、特に2000年代以降で顕著である。その背景として、階層が似た人が同じ地点に集まることで教育熱が高まること、教育熱が高い地域だと需要を見込んで学習塾チェーンが増えることなどが考えられる。
公立学校であっても、大卒割合の高い地域であれば、子供たちは大学進学を前提に勉強する。また親は進学に繋がる教育を期待するため、大卒である教師と共に協働して教育熱が高まる。これは、コミュニティから引き出せる資源に格差があることを意味する。
「生まれ」(出身階層・出身地域)による教育格差は、時代を超えて根強く存在する。戦後、日本社会は大きく変動したが、いつだって教育格差はあった。今後はどうなるのだろうか。ひとつのあり得るシナリオは、これまでと同じぐらいの格差の再生産である。この状況を改善するには、いまを生きる子供たちのために、大規模な介入を積極的に行うことが求められる。
認知能力・非認知能力の格差は、小学校に入る前段階ですでに存在し、その後の学力格差の基盤となっている。家庭のSESによって、親子の会話の量・質に大きな差が生まれ、言語技能格差の要因になっていることが明らかにされている。利用する幼稚園、保育所、習い事の有無によっても経験格差が生じ、学力格差は未就学段階で発生していると考えられる。
テレビ視聴時間やゲーム時間を比べても、両親非大卒の子は両親大卒の子よりも長く、年齢が上がるにつれてその差は拡大する。これは両親大卒層が「意図的養育」の一貫で、望ましくないものを規制しているからだと考えられる。両親大卒層では他にも、本や絵本の読み聞かせをする、健康によくないものを食べさせない、食事中はテレビをつけないなどといった、意図的養育をする傾向が見られる。
このように未就学段階でさまざまな格差があるため、小学校の新1年生は入学式の段階ですでに異なる経験をしている。
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