『貞観政要』とは、唐の第二代皇帝、太宗・李世民の言行録だ。貞観という稀に見る平和な時代を築いたリーダーと、そのフォロワーたちの姿勢が明快に示されている。クビライや乾隆帝(けんりゅうてい)など、後の皇帝が帝王学を学ぶために愛読し、日本でも北条政子や明治天皇がその教えを学んだという。
太宗がリーダーとして傑出していたのは次の2点である。1つは、臣下にいったん権限を与えたら口出しせずに仕事を任せる「権限の感覚」を持っていたこと。もう1つは、皇帝の欠点や過失を遠慮なく批判する部下を積極的に登用して、「諫言」を聞き入れるようにしていたことだ。皇帝といえども決して全能ではないとわきまえ、欠点や過失の指摘を喜んで聞き入れる。こうした太宗の姿勢が、臣下との問答形式で綴られたのが『貞観政要』である。
2世紀半ばから、地球は寒冷期を迎え、中央ユーラシアの遊牧民が食糧を求めて南下した。天山山脈にぶつかって西へ向かった人々が起こしたのが「ゲルマン民族の大移動」である。これに対し、東へ向かった人々の中の部族が「北魏」を建国したが、その流れを汲むのが「隋」だ。二代皇帝「煬帝(ようだい)」の失政により、中国全土で反乱が勃発。隋は短命に終わったが、代わって中国を統一したのが李淵(りえん)、李世民親子である。
李世民は、隋を滅ぼし中国を統一する戦いで中心的役割を果たした。後に兄と弟を殺害し、父の李淵を幽閉して、28歳のときに二代皇帝として即位した。李世民の治世は「貞観の治」と呼ばれ、君主政治の理想(盛世)、名君中の名君として讃えられている。
だが、実際の業績に目を向けると、暴君として知られる煬帝と大差がない。李世民は、正統性を主張するために煬帝を貶め、善政を布くことで自身の名声を挽回しようとした。正史の編纂が国家事業となったのもこの時代からだ。李世民が立派な人物であったことは間違いないものの、その評価は脚色がなされているといえる。
もちろん、李世民が名君と讃えられるようになったのは、正史の脚色だけが理由ではない。兄弟の殺害によって帝位に就いたことのマイナス面を打ち消すために、本気で立派なリーダーになろうと心を入れ替えたからである。
李世民は、歴史は残るという前提で、理想のリーダーを演じようと考えた。リーダーを演じるとは、自分のポジションを深く自覚することである。自分の立ち位置を確認し、それに見合った振る舞いを演じ続けていれば、それはやがてその人の本性になるのだ。
『貞観政要』は、1300年前からある、ビジネスにおける最良のケーススタディだ。そこからは、リーダーと部下とのあるべき関係や、理想のリーダーになるための条件、組織のマネジメントに対するヒントを得られる。
太宗は、諫議太夫(かんぎたいふ)という皇帝を諌める役職を置き、魏徴(ぎちょう)という人物を任命した。魏徴はかつて、敵方だった兄を支えていた人物である。太宗は、魏徴の有能さを見抜き、側近として召し抱えることにした。そして、「私の悪口を言い続けてくれ」と頼んだのだ。魏徴が亡くなった際、太宗は、自分を諌め、自分の本当の姿を教えてくれる人はもういなくなったと、嘆き悲しんだという。
魏徴は歴代の天子や帝位の継承者を観察してきた。その結果として、君主が思慮と徳をわきまえ、才能のある者を選んで任用する。そして、善者を選んでその言に従えば、何もせずとも世の中が自然に治まるという考えに至る。魏徴が理想としたのは、老子の無為自然という思想のように、「君主は何もしていないのに、気がついたら人々の生活が穏やかになっている」という状態である。そこで、策を弄せずとも物事がおのずと良い方向に導かれるような政治を太宗に求めたのだ。
3,400冊以上の要約が楽しめる