まずは、宇沢弘文氏(以下、宇沢)が生きた時代の経済学の動向を概観する。1870代以降、新古典派経済学は、限界分析を確立し、一般均衡理論を築いていった。この理論によると、資源は効率的に配分され、価格は安定し、完全雇用が実現するとされた。
しかし、新古典派経済学が描く予定調和的な市場像は、1930年代の大恐慌による大量の失業をうまく説明できなかった。そこで新たに台頭してきたのが「ケインズ経済学」である。ケインズ(1883~1946イギリス)は、それまでの新古典派経済学を是正すべく、政府による経済への積極的な介入を求めた。それに呼応するように進められたのが、ルーズベルト大統領による「ニューディール政策」だ。
第二次世界大戦後、戦時の計画経済の実績に後押しされ、ケインズの経済学が、日本をはじめとする資本主義諸国に浸透していった。1960年代前半には、アメリカ・ケイジアンの黄金時代を迎えた。
しかし、アメリカがベトナム戦争の泥沼に足を取られたのを契機に、世界の資本主義は1960年代半ばから不安定な兆候を見せるようになった。そこに現れたのが「新自由主義」という市場原理主義だ。
この考え方を唱えたミルトン・フリードマンらは、市場システムへの絶対的な信頼のもと、「小さな政府」「規制の緩和、撤廃」「国営・公営事業の民営化」を掲げた。そして、市場での競争を阻害するあらゆる存在を批判し、政府の市場への介入を戒めたのである。イギリスのサッチャー首相、アメリカのレーガン大統領が一挙にこの経済思想を受け入れた。そのため、1980年代以降、新自由主義の思想は世界中に普及し、現在に至っている。
宇沢が若い経済学者としてアメリカに渡ったのは、1956年、28歳のときのことである。専門は当時勃興したばかりの、「数理経済学」という数学を駆使する分野だった。
もともと宇沢は、東京大学の数学科で特別研究生に選ばれるほどの数学の秀才であった。特別研究生は、助手なみの奨学金をもらいながら大学院で学ぶことができるというステータスだ。ところが、宇沢はもともと社会への関心が高く、戦争で荒廃してしまった社会の病を癒したいという強い思いを抱いていた。そんななか、マルクス経済学に心を奪われるようになり、周囲の反対を押し切って数学科の大学院を退学してしまう。
宇沢が在野の研究者として経済学を独学しているときに出会ったのが、数理経済学だ。思弁的なマルクス経済学に比べて、高度な数学を取り入れた数理経済学は、宇沢の思考によどみなく入ってきたのである。こうして宇沢はマルクス経済学から数理経済学へと転向を果たした。
宇沢がアメリカで属したのは、スタンフォード大学内の「経済学の数学化」を推進する前衛集団だった。これを率いていたのが、数理経済学の第一人者、ケネス・アロー(1921~2017)だ。当時は戦後のケインズ経済学が広く受け入れられていた。
渡米のきっかけは、宇沢がアローに送った論文である。その論文では、アロー自身も解決できないでいた課題が鮮やかに解かれていた。驚愕したアローは、無名の宇沢を研究者として呼び寄せたのである。
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