ポール・クルーグマン氏は、ノーベル経済学賞を受賞した経済学者である。彼の理論は、安倍政権の経済政策「アベノミクス」の理論的支柱という役割も果たしている。クルーグマン氏は、「AIがすべての仕事を奪うという話は、下手なSF映画の類」と一刀両断する。農業従事者が減少しているように、仕事の代謝はいつの時代にも起こっているのだ。
しかし、AI脅威論が叫ばれる背景には、世界的に進む格差の拡大がある。現在は「2つに分かれる道の分岐点にいる」というのが、クルーグマン氏の分析だ。道の1つは寡頭政治、つまり一握りの富裕層が政治を支配し、民主主義すら脅かされる道である。そして、もう1つは政治の力で富を分配し、中間層を復活させる道である。
後者の道を進むためのポイントは、格差が経済的なものではなく政治的なものであり、分配のための富はすでにあると認識することから始まる。
安倍政権はクルーグマン氏の理論に基づいて、大規模な金融緩和を柱とする「アベノミクス」を実行している。その結果、ほぼ完全雇用が達成され、人手不足が声高に叫ばれるようになった。その一方で、2%のインフレ目標は達成できていないままだ。
クルーグマン氏はその原因を、日本の生産性の低さやイノベーション創出の少なさではなく、企業が賃金やモノの価格を上げようとしないことにあると見ている。さらには、生産年齢人口の急速な減少と、移民に対する不寛容性が経済成長を阻んでいるという。
クルーグマン氏の友人で、グローバル化した世界の代名詞ともなった『フラット化する世界』の著者であるトーマス・フリードマン氏。彼は日本が凋落した要因が「閉鎖性」にあると考えている。フラットな世界では、もっとも開放的なシステムであることが伸びる条件となるからだ。さらに、世界はフラットになっただけでなく、ファストかつスマートにもなっている。そのため、無能なリーダーがわずかでも舵取りを誤ると、正しい道に戻るのに大きな代償を支払うことになるというのだ。
またフリードマン氏は、「21世紀は健全なコミュニティがもっとも有効な統治単位になる」とも主張する。つまり、競争が国や企業間だけでなく、都市や町単位で起こるということだ。そのコミュニティが健全であるための要件は次の3つである。開放的であること、気概のある市井のリーダーがたくさんいること、そして特別な政治信条がないことだ。
デヴィッド・グレーバー氏は、文化人類学の教授であり、アナーキストの活動家としても知られている。そんな彼が、「Bullshit Jobs(どうでもいい仕事)」という名のエッセイを雑誌に発表した。大きな組織では、本人すら意味を見出せない仕事に就いている人が増える一方で、そうした人たちが高給を得ている。こうした主張が大きな反響を呼び、彼のエッセイは書籍として出版された。大した仕事もせず高給を得ているのだから、本人はさぞ満足だろうと考えるかもしれないが、実態は逆である。みじめな気持ちになり、心身症を訴えるケースなどが多い。こうした状況を受けて、グレーバー氏は人々の労働に対する考え方の変化を望んでいる。
意味のない仕事をなくすための近道は、看護師や保育士、運転手といった人の役に立つ仕事の賃金を上げることである。そして、究極の手段は、誰にでも最低限の生活ができる現金を渡すユニバーサル・ベーシックインカムの実現なのである。
チェコ出身のトーマス・セドラチェク氏は、異端といえる経済学者である。彼は精神分析のアプローチを用いて、資本主義を分析した。そして、彼の考える望ましい経済システムのあり方は、数学ではなく人間の本性に即したものである。
セドラチェク氏は資本主義の否定論者ではない。むしろ資本主義の進歩を信じている。経済をひとりの人間にたとえると、肉体は実体経済、つまり取引やモノ自体であり、精神は実体経済を支える制度や学問だ。資本主義を再生させるには、精神にあたる経済学の立て直しが第一歩である。その際、信じるべきは「人間の善意」だという。
資本主義を進める力が人々の倫理的な感情と合致していれば、資本主義は完璧になる。しかし、現実はそうではない。市場はフェアにできていないからだ。貧しい者がつくった安い商品は、それがどんなに価値があっても、お金持ちは決して高く買おうとはしない。価格交渉力はお金持ちのほうにあるのだ。
本来ならフェアな価格設定が求められるが、経済学はモラルやフェアネスをあまり気にかけていない。これがセドラチェク氏の指摘だ。アダム・スミスの提唱した「見えざる手」、つまり各自の利益追求に任せればすべてうまくいくという考えにも否定的である。なぜなら、見えざる手は、社会のほんの一部である「市場」にしか働かないからだ。
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