「我々が思考するように」という1945年に発表された論文は、驚くべき慧眼で現在のパーソナルコンピュータ(パソコン)、そしてインターネットを予見していた。論文で描かれたメメックスという装置は、キーボード入力ができ、ファイル共有やハイパーリンク、コラボレーションも実現できるとうたわれていた。それどころか「まったく新しい形の百科事典が現れるだろう。網の目のように関連づけが用意され」と、半世紀以上も前にウィキペディアのようなサービスの出現も予見していた。
1970年代になると、当時先進的なコンピュータメーカーであったDECは、ちょっとした冷蔵庫ほどのミニコンピュータを売り出した。しかし社長は「個人が自分のコンピュータを欲しがる理由など思い当たらない」と断言し、結局パーソナルコンピュータの開発に着手することはなかった。
代わりにパソコンをつくり、革命を起こしたのは、ガレージからはじまったアルテア、アップルといったスタートアップだ。
マウスのような直感的な入力機器と、グラフィカルなユーザーインターフェイスという現代のパソコン、そのもととなる機器をつくったのはアラン・ケイだ。彼はユタ大学に在学中、多くの先輩たちのコンピュータグラフィックスやユーザーインターフェイスのアイデアを吸収し、「数えきれないほどの人がパーソナルコンピュータを使うようになる」という未来をはっきりと構想するようになる。
博士課程を終えたケイは「パーソナルコンピュータをつくりたい」という野望を持ち、ゼロックスのパロアルト研究所(PARC)に就職した。しかしコピー機の会社で、その希望はほとんど受け入れられなかった。「会社の未来につながる流れを見ろ」と上司からたしなめられたケイは、「未来を予言する最善の方法は、みずからそれを創り出すことだ」と、今も語り継がれる名言で反論する。
そしてケイと仲間たちは、PARCで「ゼロックス・アルト」というパーソナルコンピュータの原型をつくり上げた。アルトにはネットワーク機能も備わっており、その多くは現在のインターネットで用いられる技術のもととなっている。
パソコンの実現を支えたのは、いくつもの新技術だ。とりわけマイクロプロセッサーが果たした役割は大きい。コンピュータの中央処理装置の機能を1チップに集約したからだ。しかしそもそもこうしたイノベーションが生まれた背景に、1960年代のサンフランシスコのベイエリアに渦巻いていた文化があったことは指摘しなければならない。
当時のベイエリアの文化を担っていたのは、アントレプレナーとエンジニア系のギークだった。彼らはともにカウンターカルチャー文化に深く染まっており、パワーエリートに対する反抗精神と、情報へのアクセスを自らコントロールしたいという欲求を持っていた。
世界初のパソコン「アルテア」や、アップルを生み出すことになるコミュニティ「ホームブリュー・コンピュータ・クラブ」も、こうしたベイエリア特有の文化の中で生まれた。
インテルが1974年に発売したマイクロプロセッサー、8080を組み込んだ世界初のパソコン「アルテア」には、ディスプレイもキーボードもなく、入力はスイッチ、出力は豆電球というマニア向けの製品だった。
このマシンをつくったエド・ロバーツは、模型飛行機や電子工作が大好きな「世界最高のホビイスト」とも呼ばれる人物だ。アルテアはビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズに大きなインスパイアを与え、パソコンを物好きの趣味から産業へと飛躍させる大きなきっかけとなった。
ビル・ゲイツは伝説のおたく少年だ。
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