2016年、EU残留の是非をめぐってイギリスが実施した国民投票。離脱派と残留派の割合は大差なく、どちらに転んでも不思議ではなかった。結果は離脱が51.9パーセント、残留が48.1パーセントで、僅差で離脱派が勝利した。
世界がこの結果に衝撃を受けたのは、ヨーロッパ統合に対するイギリスの長年の基本的姿勢と相反していたからだ。イギリスがヨーロッパ統合(当時のEEC・欧州経済共同体)に参加したのは1973年。ヨーロッパ単一市場の一部になることで、経済的利益を追求するのが目的だった。そして1980年代半ば以降、イギリスは市場統合において中心的役割を果たし、その恩恵を受けてきた。だからこそ経済的損失をもたらすのが必至なEU離脱を、実用主義的なイギリス国民が選択するはずがないと誰もが考えていた。
ところが蓋を開けてみれば、EU離脱が残留を上回った。世界をはじめ、EUから加盟国が抜けるなど想像だにしていなかったイギリス以外のEU諸国およびEU諸機関を驚愕させたのも無理からぬことだ。
EU離脱がいかに複雑であったかは、イギリス政治の混迷ぶりを見れば想像に難くない。それを当のイギリスが理解していなかったことが、イギリスが迷走した第一の要因だ。EUから離脱したからといって、イギリスとEUとの関係がゼロになるわけではない。半世紀近くもEU加盟国として過ごしてきたのだから、互いに折り合いのつく着地点を見つけていくのは容易ではなかった。
第二に、離脱交渉の目標がイギリス政権内でも一致していなかったことが挙げられる。国民投票キャンペーンにおいて、残留派は経済的利益、離脱派は主権に焦点を当てており、国内のコンセンサスが取れていたとは言えない。それは2018年7月にメイ政権がまとめた離脱方針「チェッカーズ提案」にも表れている。どっちつかずの中途半端な離脱協定案は、議会で過半数の支持を得るには至らなかった。
第三の要因が、メイ政権が定めたレッドライン(絶対的条件)である。これは離脱交渉で譲歩できない一線を定めたもので、きわめてハードな内容であり、EUに対して強い姿勢で臨むことを国内に示すためのものだった。だがそれでまともな交渉になるはずもない。イギリスは離脱交渉の当初から、一貫性に欠けていたのだ。
2019年1月、離脱協定が史上最悪の票差で否決されて以降、メイ政権は議会の承認を得ることができないでいた。敵は与党である保守党内にもいたのだ。このままでは離脱日である3月29日が到来するや、自動的に「合意なき離脱」となってしまう。それを避けるには期日延期しかなかった。
メイ政権は、3月20日までに離脱協定が可決されなければ大幅延期するとした。これにより残留の可能性をほのめかし、「合意なき離脱」を求める強硬離脱派に脅しをかけたのだ。しかし二度も大差で否決されたものを可決させるのには無理があった。結局、離脱協定可決の目処は立たず、EUによって最長で2019年10月31日までの期日延期が決定された。
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