人の欲望はモデルによって生み出される。私たちが何かを欲しいと感じる時、その裏にはそう思わせる人やモノが必ず存在する。たとえば、衣装デザインの仕事をしている友だちとお店に入ったとしよう。あなたは店内を見回すのだが、特に目立った商品はない。しかし、一緒にいた友だちが1枚のシャツを気に入る。その瞬間、それはただのシャツではなくなるのだ。
このような現象はいたるところに見られる。学校やブランド、レストランでのメニュー選びなど、私たちは絶えずこういったモデルに影響されているのだ。モデルは私たちが持っていないものに対する欲望をかきたて、それを得るための障害が大きいほど、魅力は増していく。
欲望がモデルに依存するという事実に対して、悲観する必要はない。モデルがいなければ言語を共有できないだろうし、現状以上の何かを求めるのも難しいだろう。だが、モデルの存在を認識していないことは、非常に危険である。なぜならモデルの影響力は底なしであり、気づかぬうちにモデルとの不健全な関係に陥りかねないからだ。
あのスティーブ・ジョブズでさえ例外ではなく、誰にでも隠れたモデルがいて、真似をしたいと思っていなくてもそれを模倣している。そしてこのモデルには、自分の世界の「外にいるモデル」と「内にいるモデル」の2種類がある。
前者は、「私たちが住む社会層の外から欲望を媒介」し、私たちと「面と向かって競争することは絶対にない人たち」である。ハリウッド俳優やトップスポーツ選手、ユニコーン企業の創業者などがそうだ。かれらが住む場所を著者は「セレブの国」と名付ける。セレブの国にいるモデルと、自分との間には時間、空間、地位といった壁があり、基本的には競争相手にならない。私たちがセレブの国の人たちの欲望を公然と真似しても、気にされる心配はないはずだ。
一方、「自分の世界の内」とは「私たちの大多数が人生のほとんどを過ごす場所」であり、同僚や友人のように密接に関係する人びとと、そうした人たちとの競争意識であふれている。その場を、「一年生の国」と呼ぼう。一年生の国のモデルは内的媒介者であり、同じ社会空間にいるため、私たちはその言葉や行動、欲望にすぐ影響を受ける。恋愛、キャリア、健康まで競争の対象となり、いつしか差別化の闘いに巻き込まれている。友だちの誰かみたいになりたいと思っても恥ずかしくて認められない。
欲望には金融市場などと同じように再帰性がある。一年生の国にいる人たちが欲望を持った参加者と一緒にいれば、お互いに欲望が影響を受け、同じ車に乗ったまま競争を始める。鏡映しのライバル像は歪められた現実であり、差別化のためなら何でもする。そしてそれは、どちらかが競争から抜けるまで終わらない。
SNSはソーシャル・メディエーション(媒介)であり、模倣の欲望を真の原動力としている。スマートフォンは他者の欲望へのアクセスを自由にした。だから、そうした他者の一人ひとりが、私たちの人生にとってどのような意味を持っているのか、模倣の欲望が私たちのなかでどのようにあらわれるのか、考える必要がある。
ある集団の人びとが似ているほど、コンサート会場や政治集会でエネルギーが伝わるように、模倣の欲望は人から人へと伝染していく。それは、フェラーリに触発されて高性能な高級車を生み出しながら、競争を避け続けたランボルギーニのように、ポジティブで健全な欲望のサイクルを生む場合もある。
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