生きていると知らないことと出くわすものだ。私たちは、それらすべてに対して問うことはしない。むしろ問うことをためらったり、抵抗を感じたりする。その理由として、著者は以下の5つの理由を挙げている。
まず、問うのが「歓迎されない」ためである。たとえば、学校で「先生、これはどういう意味ですか?」と問うと、「自分で考えなさい」と一蹴される。会社でも、質問したら「そんなこともわからないのか!」と怒られる。そこまではいかなくても煙たがられる場面は多い。「いい質問」しか許されない。
2つ目の理由は、問うのが「攻撃的だ」と感じられることである。学校の先生が「何で宿題をやってこないんだ?」、恋人が「どうして連絡くれなかったの?」と聞くとき、それは不満や抗議を表している。どのように答えても、さらに責められる可能性がある。問いが攻撃的であるならば、自分も相手にしないようにしたい。そう思う人は多いだろう。
3つ目の理由は、問いは「与えられるものだ」という思い込みがあることだ。学校では、教科書やテストに出題されている問いに「正解」を出すことが常に求められる。相手の意図をふまえた答えを出さなくてはならない。そうして「空気を読める人間かどうか」がいつも試されている。
4つ目の理由は、問うことが「面倒」だからだ。相手に問えば、その人に不快感を与えていないか心配になる。答えのない問題について問えば、余計なことも考えなければならなくなる。自分に問いを向ければ、「なぜ自分はこうなのか」としばしばつらい気持ちになる。だから、最初から問わなければ平和で、楽に過ごせると考える。
そして最後は、問うのが「怖い」という理由である。知的な人、学歴の高い人ほど、わかったふりをして問いを恐れる。答えが出ない問いは「そんなことを考えても仕方ない」と忌避されるか、「そんなに悩まなくていい」と諭される。
そうした経験から、疑問をもつのを自らやめてしまうのだ。
問うのが難しい理由は多い。とはいえ、私たちはまったく問わないわけではない。好奇心や違和感を表現したいという欲求があるからだ。そこで何のために問うのか、何を問うのか、どのように問うのか、適切に理解することが重要となる。
問うことが真価を発揮するのは、目的と結びついているときである。その目的には、知ること、理解すること、考えること、自由になることが挙げられる。
日常生活では何でもかんでも知っている必要はないが、「新しいこと」と「正しいこと」を知るために問うことは重要だ。
新しいことを知ることは、知識を増やすだけでなく、自分の世界を広げ、楽しみを増やしたり失敗を少なくしたりできる。関心があることを増やせれば、新たな可能性も拡げていける。大学の選択や就職活動など、人生の重要な決断において、さまざまな大学や会社について詳しく調べることで、よりよい選択ができるだろう。知ろうとしなければ、自分と異なった価値観に触れることもできない。
正しいことを知ると、他者や自分についてより深く理解できる。「知っている」と思っていたことを改めて疑う。通説やうわさ話が孕む誤りに目を向け、「本当にそうなのか?」と問うことは、差別や誹謗中傷につながらないために重要なのだ。
新聞記事を読んでいて、次のような一文を見かけるとしよう。
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