「え、私が社長に!?」矢吹由紀はとまどった。急逝した父に代わり、アパレル会社「ハンナ」の新社長に選出されたためだ。大学卒業と同時にハンナに入社して5年。デザイナーの仕事を天職だと感じていた由紀の胸中に、父を憎む気持ちが湧いてきた。
翌日、メインバンクの支店長から、これまでの父とのやりとりについて説明を受けた。ここ数年、ハンナの業績は低迷していたため、リストラを断行するよう何度も忠告してきたという。ところが父は耳を貸さなかった。むしろブランドを増やし工場を増設した結果、ハンナは運転資金にも事欠くようになっていた。
支店長の考えはこうだ。新社長の由紀は経営の素人で、ハンナを立て直せるはずがない。できる限り早く貸付金を回収して、倒産による損失を抑えなければ――。
支店長から「リストラを実行してください。期限は今日から1年です」「今後追加の融資には一切応じられません」と勧告され、由紀の不安は頂点に達した。
役員に相談しても、誰も親身になってくれない。打つ手が見つからないまま、時間は空しく過ぎていく。
1カ月ほど経ったある日、母が意外な人の名を口にした。「同じマンションの安曇さんに相談したらどう? 公認会計士の資格を持っていて、今は大学院で会計を教えているそうよ」
由紀は部屋を飛び出し、安曇の部屋のチャイムを鳴らした。現れたのは片手にワイングラスを持った天然パーマの中年男性だ。安曇は「喜んで君の力になろう」と言いながら、3つの条件を出してきた。レクチャーは月1回で、学んだ内容は必ずその月に実行すること。レクチャーは美味しい食事をしながら行うこと。そして、報酬は1年後に由紀が払いたいと思う金額とすること、だ。こうして由紀へのコンサルが始まった。
翌週、由紀は安曇とともに、築地にある料亭の個室にいた。
その日の会議では、製品在庫が多すぎる件について、各部の部長たちがお互いに責任を押し付け合っていた。しかも彼らは議論の最後に「私たちに的確な指示を出すのが社長の仕事です」と言い放った。経営の素人である由紀に対する嫌がらせだ。
「社長として最初にするべきことは何でしょうか?」と尋ねる由紀に、安曇は「まず、会計を学ぶことだ」と答えた。会社を経営するのに、なぜ会計が必要なんだろう。数式を見ただけでぞっとするのに……。
安曇は由紀にルビンの壺というだまし絵を見せてきた。はじめは白磁の壺にしか見えないが、やがて男女の顔が向き合っている絵柄が浮かび上がる。
会計はだまし絵のようなものだ。初心者はひとつの見方でしか決算書を見られない。だが訓練を積むうちに、決算書の別の姿が見えてくるようになる――それが安曇のメッセージだった。
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