人々は科学研究に資源を投入することで、途方もないほどの新しい力の数々を獲得した。これを「科学革命」と呼ぶ。これが革命と呼ばれるのは、西暦1500年ごろまで、世界中の人々は、自分たちが新たな能力を獲得できるとは思っていなかったからだ。彼らはそれまで、新たな能力の獲得というよりも、持っている能力をいかに維持するかに心血を注いでいた。だがしだいに、人類は科学研究に投資することで自らの能力を高められると信じるようになった。それを裏づける証拠が増えるほど、裕福な人々や政府はますます多くの資源を科学に投入した。
もともと、人類は認知革命以降、森羅万象を理解しようとしてきた。だが、近代科学は従来の知識の伝統とは、3つの点で完全に異なっている。まず、(1)進んで無知を認める意志をもっている点だ。近代科学は、私たちがすべてを知っているわけではないという前提に立ち、知っていると思っていることが誤りである可能性も考慮している。つまりいかなる概念も、神聖不可侵ではないというわけだ。
次に(2)観察と数学が中心に置かれている点である。近代科学は無知を認めたうえで、新しい知識の獲得をめざす。そのために、観察結果を収集し、それらを数学的ツールを用いて結びつけ、包括的な説にまとめあげるのだ。
最後に、(3)新しい力の獲得を志向する点である。理論を生みだすだけでは満足せず、新しい力の獲得、とくに新しいテクノロジーの開発をめざすという特徴をもっている。
科学革命は知識の革命ではない。むしろ、無知の革命である。科学革命の発端は、人類は自らにとって最も重要な疑問の答えを何も知らないという、重大な発見にあったのだ。
科学革命以前は、人類の文化は「進歩」というものをほとんど信じておらず、黄金時代は過去のものであると考えていた。実際、多くの信仰では、いつの日か救世主が現れてこの世の苦難に終止符を打つと教えられていたし、人類が新しい知識や道具を発見することで、それを成し遂げられるとは考えられていなかった。むしろ、バベルの塔やイカロスの神話などが示しているように、人間の限界を超えようとすることは不遜であると捉えられた。
しかしながら、科学の発見が私たちに新しい力を与えうると自覚した人々は、しだいに真の進歩は可能なのではないかと思いはじめた。解決不可能のはずだった問題が科学の力で次から次へ解決しはじめたのを見て、新しい知識を獲得して応用すれば、どんな問題でも克服できるのではないかと自信を深めたのだ。
今日では、私たちのあらゆる問題の答えは、科学とテクノロジーが握っていると確信している人も多い。ただここにはひとつ問題がある。科学はけっして、あらゆる活動を超えた営みなのではなく、他のあらゆる文化と同様、経済的、政治的、宗教的な干渉を受けるということである。というのも、科学は非常にお金がかかるものだからだ。
そういった事情から、科学は自らの優先順位を設定できない。また、自らが発見した事象をどうするのかも決められない。つまり、科学研究は宗教やイデオロギーと提携した場合にのみ、うまく栄えることができる営みなのである。
したがって、人類が科学を発展させていった経緯を理解するためには、物理学者や生物学者、あるいは社会学者の業績を調べるだけでは不十分だ。そういった学問を形づくり、特定の方向に進ませたイデオロギー、政治、経済の力も考慮に入れなくてはならない。
そのなかでもとくに注意を向けるべき力が2つある。帝国主義と資本主義だ。
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