1952年7月15日、兵庫県芦屋市に小池百合子は生まれた。家のまわりの芦屋や神戸には多くの外国人が居住しており、外国の雰囲気を肌で感じることができる環境だったため、百合子は知らず知らずのうちに海外への関心を深めていくこととなった。
また、両親も百合子の人格形成に大きな影響を与えた。母親の恵美子は独立心が強く、いつも「結婚は最終目標ではない」と百合子に言い聞かせていた。自分が若い頃に両親を亡くして苦労したため、手に職を持つことの重要性を誰よりもわかっていたからだった。百合子が中学に入ってからは毎月1万円を渡し、そのなかから授業料、衣服、文房具、交遊費をやりくりさせた。
くわえて、母親も父親の勇二郎も、オリジナルであることを非常に重んじていた。「人と同じことをしてはいけません。もしも、同じことをするのなら、誰よりも極めなさい。中途半端はダメ」「人とやるのは、恥だ。みんなと同じことをやって成功しても、それは当たり前のことで、そんなのはつまらん。みんなが気がつかないことをやるから、意味がある」。こうした両親の思想は、現在の百合子にも確実に受け継がれているといえる。
百合子がまず自分の強みとして選び、伸ばしていったのは英語だった。日本が国際的なつながりを強めていくなか、全世界で通用する英語の必要性が高まっていた。一時期は英語で身を立てることを固く決心するほど、百合子は英語の勉強にのめりこんだ。
しかし次第に、自分の英語力ではどうしても限界があると感じるようになった。そこで英語だけでなく、アラビア語も学ぼうと決めた。国連の公用語にアラビア語が加わるという事情にくわえ、アラブ諸国を知る人が日本にはあまりいないことも、アラビア語を選んだ大きな理由だった。「誰もしないことをしなさい」という母親の言葉が脳裏に浮かんだのだ。
アラビア語を最も効率よく勉強するためには、直接エジプトに飛び立ったほうがいいと判断した百合子は、通っていた関西学院大学を思いきって退学した。一見すると向こう見ずな行動ではあるが、危うい状況に立ったときのほうが、むしろプラス思考になる性格だった。
エジプトに着いた百合子は、さっそくカイロ大学に足を運んで文学部長と面会し、社会学科に入らせてほしいと直訴した。しかし、アラビア語ができないことを告げると、学部長は百合子を門前払いした。そこでアラビア語を習得するために、まずカイロ市内にあるアメリカ大学に入学した。朝から晩までアラビア語漬けになり、日本人相手の観光ガイドなどをしていくうちに、言語についても街についても詳しくなっていった。
1972年6月、百合子はカイロ大学を再び訪れ、入学許可を受けた。日本人留学生でカイロ大学を正式に卒業したのは、それまでひとりしかおらず、それも根気よく10年も勉強してのことだった。日本人にかぎらず、アラビア語に精通しているアラブ諸国の学生ですら、2年生にも進級できないのが全体の5分の1を占めていた。それでも百合子は、76年にカイロ大学を無事卒業した。日本人留学生としては、実に2人目のことだった。
日本に帰った小池は、東京でアラビア語の通訳や講師をしながら生計を立てていた。この間、父親の会社が倒産したことで、取り立て屋の暴力団関係者が実家の芦屋に入り込むようになり、もはや生まれ育った芦屋の家に帰ることはできなくなった。こうした経験を経た百合子は、負け戦の辛さを理解し、<一度負けた人でも、立ち直るチャンスを作ること、希望の道を作ることがわたしの仕事だわ>と考えるようになった。
小池は通訳という仕事を通じて、さまざまな人脈をつくっていった。そのなかには日本の財界人や、エジプトの石油大臣、サダト大統領も含まれている。また、中東和平の鍵をにぎる重要人物であるカダフィ大佐のインタビューを担当することになったときは、3週間ほど粘りに粘って説得にあたった。
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