1601年、フランス南西部の町に生まれたピエール・ド・フェルマーはいかなる団体にも属さず、アマチュアの数学者として活躍していた。その彼の座右の書が『算術』だった。古代ギリシャ数学最後の巨星、ディオファントスによって編纂された大著である。
あるとき『算術』の2巻目を検討していたフェルマーは、ピュタゴラスの定理に関する箇所に行き当たった。そこである方程式を思いついたのである。それが後に「フェルマーの最終定理」と呼ばれることになる方程式、つまり「3以上の自然数nに対して、Xのn乗+Yのn乗=Zのn乗を満たす自然数X,Y,Zは存在しない」であった。
そしてフェルマーは次のメモを残した。「私はこの命題の真に驚くべき証明を持っているが、余白が狭すぎるのでここに記すことはできない」。ここに世界一の難問が登場した。
フェルマーの最終定理は、つい最近まで「証明が難しい」というだけの価値しか認められていなかった。数学的に重要だとは考えられていなかったのである。そうであるにもかかわらず、シンプルに見えながら異様な難しさを持つこの定理には、多くの人を引きつける魅力があった。
そんな最終定理の証明に大きな一歩を踏み出したのは、天才として名高いレオンハルト・オイラーであった。とてつもない直観力と底なしの記憶力を持ち、長大な計算を暗算でやってのけたという伝説的人物である。18世紀を生きたこの数学者は、フェルマーの『算術』の別箇所に、n=4の場合の証明が不完全ながら書き込まれているのを発見、これを出発点にしてn=3の場合の証明に成功した。しかしこの方法はn=3の場合にしか使うことができず、数学史上屈指の天才もついにフェルマーの挑戦を打ち破れなかった。
オイラー以来50年以上も閉ざされてしまっていた道をあらためて切りひらいたのは、若きフランス人女性ソフィー・ジェルマンだった。1825年、ジェルマンの考えた方法を活かし、2人の人物が同時にn=5の場合を証明し、さらに1839年にはn=7の場合が証明された。こうして、フェルマーの最終定理はひとつひとつのケースにおいて証明されつつあった。
しかし1847年、ドイツの数学者エルンスト・クンマーの発表が衝撃を与えることになる。当時の数学のテクニックではフェルマーの最終定理の完全証明は不可能であるということを見事に論証したのである。世界一の難問に挑んでいた数学者たちはみな深刻な打撃を受けた。
このクンマーの仕事により、フェルマーの最終定理を証明する望みはますます薄くなり、数学者たちの関心も薄れつつあった。そこに新たな生命を吹き込んだのが資本家パウル・ヴォルフスケールであった。
彼はある時、失恋で絶望の底に沈み、自殺を決心した。綿密に自殺の計画を立て、決行の時刻を午前零時と決めた。その直前、最後のひと時を過ごそうと趣味である数学の本を拾い読みしはじめた。そこには例のクンマーの名著も含まれていた。そしてなんと、クンマーの論理の穴を見つけたのである。
「フェルマーの最終定理はやはり証明可能なのかもしれない」と彼は興奮し、修正可能かどうかを検討しはじめ、その作業が終わったときには夜が明けていた。結局、クンマーの証明は修復され、フェルマーの最終定理の証明はやはり不可能の領域に留まったものの、もはやヴォルフスケールは自殺を考えなくなっていた。そして遺言を書きかえた。
のちに彼の死に際して読み上げられた遺言には、フェルマーの最終定理の証明に莫大な賞金をかけると書かれていた。
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