25歳のとき、新卒で入社した会社を2年強で辞めた髙田氏は、長崎県平戸市の実家に戻り、「カメラのたかた」という写真店を手伝うことにした。ちょうどカラー写真が普及しはじめた頃だった。
平戸市は年間200万人近い観光客が訪れる一大観光地でありながら、当時カラー現像ができたのはカメラのたかたのみだった。そのため、店は連日大忙し。毎夜、複数のホテルの宴会場で写真を撮って夜中に現像し、朝食会場に売りに行った。毎晩1500~2000枚もの写真を現像するので、睡眠時間は毎日2~3時間が当たり前だったが、家族一丸となって働くのは非常に楽しかったと髙田氏は振り返る。
また、当初は父親から言われた仕事を楽しんでやっていただけだった髙田氏だが、目の前の仕事に真剣に取り組むなかで、仲がよさそうな数人での写真も撮ってあげたり、宴会がはじまる前に集合写真を撮ったり、プリントするときに文字を入れたりと、徐々に自分なりの工夫をするようになった。すると、1人で写っている写真に加え、追加で2枚、3枚と買ってもらえるようになった。
さらに、昼間は観光地についていって、現地での写真撮影もおこなうようにした。写真だけではつまらないと考え、今度はそれをアルバムにしたりお皿に焼いて売ったりもした。ホテルで売れ残った写真を観光地でも売りはじめると、朝バタバタして買えなかった人にも買ってもらえるようになった。
目の前のことに一生懸命向き合っていると自然と課題が見えてくるし、それを解決するためのアイデアも自然と生まれてくると髙田氏は語っている。「今を生きる」ことこそが、髙田氏が常に大切にしている考えだ。
27歳で結婚してすぐ、髙田氏は玄界灘に面した松浦という町で支店を任されることになった。そこで奥さんと話し合い、当初月商55万円だった店を、1年間で月商300万円の店にするという目標を設定した。
これは並大抵のことで成し遂げられる数値ではない。松浦は人口2万人ほどの小さな町で、平戸と違って観光客がやってくるホテルがなかった。そのため、利益が出るのは主にフィルムを売ること、現像してプリントすることに限られていた。
髙田氏は、とにもかくにも現像するフィルムを集めなければと考え、建設現場を回ることにした。公共事業は役所に工事写真を提出しないといけないため、たくさんフィルムが出る。松浦中の工事現場を回ってコネをつくり、集配ルートを確立させると、フィルムの請負に加え、今度はカメラやフィルムも買ってもらえるようになった。
それでも月300万円には到底届かなかったが、旅館に行ってカメラを並べさせてもらったり、大手の旅行会社と契約して団体旅行に添乗し、撮影させてもらったりした。その結果、
3,400冊以上の要約が楽しめる