あるとき著者は、地元の公共ラジオ局「コマンド・パフォーマンス」という番組の再放送を聴いた。1945年8月15日、対日戦勝の翌日に放送された回だ。ホスト役と豪華なゲストたちの態度は終始控えめで、謙虚という言葉に尽きる。軍事的勝利を大げさに喜ぶことなく、戦争が終わったことを神に感謝しようという、厳粛な発言が繰り返されていた。
これは当時の国全体の雰囲気を反映したものだ。もちろん、終戦直後が決して良い時代だったわけではない。激しい人種差別があり、美味しい食べ物も少なかった。だが当時は、今の私たちが失ってしまった美徳が受け継がれていた。
彼らは自分の欲望を否定的にとらえ、欠点を克服すべく努力しようとするのが一般的であった。自分の考えや成し遂げたことを、瞬時に全世界と共有しようとする人など少なかったはずだ。しかし、この数十年で、そうした謙虚な文化は自己宣伝の文化へと変貌を遂げた。「私の力を見ろ、私は特別なんだ」と、誰もが主張する文化だ。
こうした変化は、謙虚を良しとする「小さい私」の文化から、自己顕示を良しとする「大きい私」の文化への変遷といえる。例えば、1948年から1954年の間、1万人の若者を対象に行われた、次のようなアンケートのデータがある。これによると、「自分のことを重要な人物だと思うか?」という問いに対し、「そう思う」と答えたのは12%に過ぎなかった。ところが、1989年に同様のアンケートを実施すると、実に8割近い若者が、自分を重要な人物だと見なしていたという。
人間の美徳には二つの種類がある。一つは履歴書向きの美徳だ。これは文字通り履歴書で見栄えのいい美徳のことである。就職戦線を有利に戦うのに役立ち、わかりやすい成功へと導いてくれる。
もう一方の美徳とは追悼文向きのものだ。自分の葬儀の際、集まった人たちの思い出話の中で語られるような美徳である。
どちらが大事かと問われれば、追悼文向けの美徳を選ぶ人が多いだろう。だが現代社会では、履歴書向きの美徳が重視される傾向にある。教育制度を見ても然り、メディアで飛び交う言葉を見ても然りである。大半の人は、根本的な人格を磨くよりも、仕事上の成功をめざす生き方を選んでいる。
二種類の美徳について考える上で役に立つのが、ジョセフ・ソロヴェイチックというラビ(ユダヤ教の指導者)の言葉だ。1965年に刊行された彼の著書『孤独な信仰の人』によると、天地創造の物語には二つの側面があるため、人間の本性にも対立する二つの側面があるのだという。ソロヴェイチックはそれを「アダムⅠ」「アダムⅡ」と名づけた。
履歴書向きのアダムⅠは野心家で、世界を征服したがる。キャリア志向で創造性に富む。一方のアダムⅡは、心の内に何らかの道徳的資質を持とうとする。大切なのは、慈悲、愛、贖罪といった普遍的な真理である。他人への奉仕のためには自己犠牲をも厭わず、世俗的な成功や社会的地位を求めることもない。
外に向かう誇り高きアダムⅠと、内に向かう謙虚なアダムⅡ。両者は互いに矛盾する存在だ。ソロヴェイチックいわく、私たちは誰しも二つのペルソナを演じるよう運命づけられている。だからこそ、両極端の性質の間で揺れ動きながら生き抜いていく術を身につける必要があるという。
自分の中のアダムⅡを常に意識していなければ、私たちは簡単に自己欺瞞に陥ってしまう。アダムⅠの人生設計は明確でわかりやすいが、アダムⅡのそれは曖昧でわかりにくい。どうすればアダムⅡを成長させて人格者になれるのか、そこへ至る道のりを先人に学びたい。そこで本書では、素晴らしい人格を持つに至った実在の人物を「人生の手本」として取り上げる。
この本で取り上げる人々の人生は実にさまざまだが、全員に共通していることがある。それは自分との闘いに正面から取り組む人生を送ったということだ。彼らはいったん「謙虚の谷」へと下り、その後、長い努力を経て高い人間性を持つに至っている。
アダムⅡを成長させた人格者の手本として、アメリカの労働長官を務めたフランシス・パーキンズの半生を振り返ってみよう。
1911年、ニューヨークのロワーマンハッタンで、アメリカ史上に残る「トライアングル・シャツウェスト工場火災」が起こった。数多くの死傷者を出したこの火災の恐怖は、街全体にとって大きなトラウマとなった。
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