日本では年齢で階級が分かれてしまっている傾向にある。バブル期と小泉構造改革の間に挟まれてしまったロストジェネレーション世代(現在30代後半から40代半ば)と比べれば、現在は就職率もよくなった。しかしいまの若い世代は、団塊の世代と比べればずっと貧しい階層にいる。
その一方で、経済的に豊かな時代に育った年長世代の左派の間では、脱成長論が人気だ。北田氏によれば、日本の左翼は法や政治、文化などの「上部構造」に焦点を当てがちで、社会の土台となる経済の仕組み、すなわち「下部構造」を忘れてしまっているという。「大事なのは経済だけではない」という思想が変質して、「経済は大事ではない」という主張にすり替わってしまっているのだ。
たしかに日本の左派の間でも「富の分配」自体は議論されているが、「成長」とは切り離されて考えられることが多い。「誰かが得をしたら、そのぶん誰かが損をしている」というイメージが、「再分配と経済成長は対立したもの」と捉えられる一因なのではないかと松尾氏は指摘する。日本には「身内は助け合うが、他人は食うか食われるか」という発想がはびこっており、共同体が解体されたいまでは、低成長社会の中で限られたパイを奪い合うことに帰結しかねない。
経済の平等を考えるときは、「何の平等か」を問う必要がある。ロスジェネやデフレ不況に苦しめられた世代は、キャリアの出発点において不平等な状況に置かれており、そもそも機会が平等ではない。消費増税を財源にしておこなわれるような再分配政策は、所得の低い人に相対的に重い負担を強いることになる。
松尾氏は技術革新などによる供給能力の向上を「天井の成長」(長期の成長)、需要が喚起されて経済が押し上げられることを「短期の成長」と表現し、区別して説明している。
そのことを区別せずに「成長はいらない」という主張がされるとき、「『短期の成長』はいらない」ということを意味してしまうことがある。日本が需要不足の状態にあり、完全雇用状態にほど遠いにもかかわらずだ。これでは桶に水(=労働者)が少ししか入っていないにもかかわらず、それを満たそうとするような「成長」さえも否定してしまうことになる。そうなれば雇用不安をかかえる労働者はますますお金を使わなくなるので、また需要が不足してしまう。
失業問題を解決するのであれば、やはり「成長」が必要なのである。
新自由主義でも社会民主主義でもない「新しいレフトの道」を名乗って出てきたイギリスのブレア政権であったが、やったことはほとんど新自由主義と変わらなかった。ブレア政権は「能力主義の社会をつくる」と宣言していたが、これは能力で決まる新たな階級の存在を容認するだけであり、階級の格差を縮めてより平等な社会にしようということではなかった。これでは貧困をなくすことはできない。「第三の道」という政策は、結果的に多くの人を痛めつけることになったのである。
欧州の新しい左派の運動は、経済問題を重視している。
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