「人間は物語を必要としている」とよく言われる。まるで、日光や水や酸素を摂取するように、物語を外から摂取する必要があるような言い方だ。だが著者は、人間は生きている限りストーリーを合成してしまうものだと考えている。二酸化炭素を作らずに生きていくことはできないように。
人は生きていく中で喜んだり楽しんだりするだけでなく、悲しみや怒り、恨みや羨望に苦しめられ、生きづらさを感じることもある。「あのときあのようなチョイスをしたから、現在の自分があるのだろうか?」「自分はなんのために生きているのか?」と、自分の現状の原因・理由を探したり、人生の意味や目的への問を立てたりしては、答を出せずに苦しむこともあるだろう。人間はできごとを勝手に繋(つな)いで、ありもしない因果関係を作っては、そのことで助けられたり苦しんだりする生き物なのだ。
「犬が人を噛(か)んでもニュースにならないが、人が犬を噛んだらニュースになる」という言葉がある。要するに、犬が人を噛むストーリーよりも人が犬を噛むストーリーのほうが語る価値があるということだ。しかし、なぜ人はそのように思うのだろうか。
米国の計算機科学者ロバート・ウィレンスキーは、ストーリーを語ることを正当化しうる理由や目標を「外的要点」と呼んだ。「犬が人を噛むのはよくあることだが、人が犬を噛むのはあまりないレアなことである」という事情がこのストーリーを語る理由である。社会における「蓋然性の公準や道徳の公準」から逸脱したできごとが、そのストーリーの外的要点となる。
マリー=ロール・ライアンは「尋常ならざるできごと、問題を孕(はら)んだできごと、あるいはけしからぬできごとこそ報告価値がある」と述べている。たしかにワイドショウや週刊誌には、起こる確率の低い珍しいできごとや、人の顰蹙(ひんしゅく)を買うできごとの話題がたくさん取り上げられている。報告価値とはすなわち、「つい自動的に続きを見届けてしまいそうになる」ということだろう。
蓋然性が低いことのほかに、道徳的に「けしからぬ」ことも報告価値が高い。その理由は、人類の進化の過程にあると考えられている。群れの中で道徳感情に反する者がいたとき、その事実を仲間にシェアし、処置を決定しようとしていたのだろう。
暴君として知られるネロは、配下の者に実母を殺させた。この事件についてオービニャック師は、フランス古典演劇の理論書『演劇作法』において、「このような場面を劇として上映しても、観客は引くだけでおもしろがらないだろう」と書いている。真実である実話が「ひどい話」の場合、人の耳目を引くことにはなる。ただしそれを劇にすると、観客は「ありうるはずがないから信じ難い」と感じる。だから舞台には、真実らしさが求められるのだという。
この主張には、ふたつのポイントがある。まず、「ほんとうのこと」と「ほんとうらしいこと」は違うということ。
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