田中角栄の『日本列島改造論』は、経済成長に置き去りにされる地方の問題に真正面から向き合った、真摯な論考だった。国土を大改造することによる均衡ある発展や、交通や通信の意味を見通した田中角栄の慧眼には、心から敬服させられる。しかし山を削り、海を埋め立てて道路をつくる列島改造の論理では、地方の現実を変えられず、むしろ道路をつくるほど人が出ていくという皮肉に苦しむようになる。
では改造でなければどんな方法があるのか。それを考えるうえで参考になるのが、障がい者のケアにおける回復(リカバリー)の考え方だ。そこでは、障がいはハンディではなくアイデンティティであり、障がいを受け入れ、新しい人生の物語を編み上げてゆく過程こそが回復だとされる。いまの日本に求められているのは、このような意味における回復なのではないだろうか。
改造の論理の根底にあるのは自己否定である。しかし否定でも改造でもなく、共に生きようとする努力の先に、この国ならではの未来があるはずだ。列島改造から列島回復へ――新しい社会の物語を編みだすことがいま求められている。
日本がこれまで比較的平等な社会を築けてきたのは、公共事業を通じた地方と低所得層への再分配という、「土建国家モデル」が存在していたからだ。土建国家モデルには、社会保障政策の充実、公共事業を通じた地方と低所得者への所得の再分配、減税による中間層への所得還付という、社会保障システムとしての意味合いがあった。欧州各国がソフト面を中心に福祉を拡充し、「福祉国家」化していったのとは対照的に、日本はハード中心・公共事業偏重の「土建国家」と化していった。再分配にせよ、所得還付にせよ、その前提にあったのは雇用である。土建国家モデルとは、所得があることを前提に成立した社会保障システムと言える。
しかし土建国家モデルが破綻すると、地方と低所得者層への再分配が困難になり、中間層への減税による所得還付もなくなって、不十分な公的サービスだけが残された。再分配ができなくなれば格差は拡大し、社会の分断は進行する。雇用が空洞化することで、稼ぎをセーフティネットにしてきた社会保障システム自体が機能しなくなった。
国土はコンクリートで埋め尽くされたが、インフラは老朽化し、メンテナンスのための財源もない。土建国家モデルが破綻したあとに残された負の遺産に、私たちはどのように向き合っていけばよいのだろうか。
バブル崩壊後、新自由主義的な経済運営が行われ、「お金がすべて」的な価値観が広がっていった。一方でそれとは裏腹に、若い人達を中心に“つながり”への希求が急速に高まっていった。そして東日本大震災によって、その傾向は一層強まっていく。
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