1992年6月、著者はパキスタンのカイバル峠をこえてアフガニスタンに入国しようとしていた。JAMS(日本―アフガン医療サービス=ペシャワール会)による「アフガニスタン復興のための農村医療計画」の進捗を確認するためだ。
1979年12月のカイバル峠の閉鎖以来、パキスタンとアフガニスタンの間の国境は鉄壁のように思われていた。だが、あっけないほどスムーズに国境を越えることができた。
閉鎖が解除されると、怒濤のような難民帰還がはじまった。酷暑のカイバル峠には「帰郷難民」の群れができており、多い日には1万人にものぼるほどであった。
皮肉なことに、この大移動は、国連や欧米難民援助団体の「帰還救援活動」が停止した直後に生じた。外部の者が手を出せば出すほど「難民帰還」が困難となり、ひきあげざるをえなかったからである。一方、著者が所属するJAMSは、このような事態を予測し、数カ月前からアフガニスタン内部に診療所を設置して新たな仕事に備えていた。
1978年6月、著者は山岳会の遠征隊に参加して、はじめてヒンズークッシュの山々を眺望した。巨大な白峰が果てしなく連なる、すばらしい景色だ。
しかし、診療活動をとおして村人たちの生活が身近になるにつれ、気が重くなった。連邦政府の観光省からは住民の診療拒否をしないように申し渡されていたが、とてもまともな診療ができる状態にはない。薬品は隊員たちのためにとっておかなければならず、処方箋をわたしても現地で手に入るとは限らない。職業人として、この出来事は深い傷となって残った。
1979年にソ連軍による侵攻がはじまるまで、著者は繰り返しアフガニスタンを訪れた。そして、農村医療のために再びアフガニスタンを訪れ、「帰郷難民」の群れとともにカイバル峠を越えるのは、その13年後のことだった。
ペシャワールでの活動は「ハンセン病根絶計画」への参加からはじまった。現地にも、内科や外科の医師はいる。しかしハンセン病は、パキスタン全土で数万の患者を抱えながらも、専従医師は全国にわずか5名しかおらず、北西辺境州には皆無だった。数名のスタッフたちが悪戦苦闘している状況を見捨てておくわけにもいかず、赴任後の前半はハンセン病の仕事を中心に展開することになった。
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