マーガレット・サッチャーは、とりわけ強い信仰心を標榜し、公の場で政治と宗教の関係を積極的に語った指導者だった。彼女にとって信仰は、単に自らの内面のことではなく、彼女が打ち出した国家改革策の倫理的な枠組みをなすものでもあった。
地方都市グランサムで下層中流家庭に生まれたサッチャーの幼少期は、敬虔なメソジストの父親の影響で、宗教を中心に生活が回っていた。日曜日の礼拝や、賛美歌のオルガン演奏、夕食会での宗教に関する議論など、日常には宗教が色濃く存在していた。しかし、オックスフォード大学に進学するとともに宗教は生活の中心的地位から後退し、政界進出後保守党党首に選出されるまでは、サッチャーが宗教について語ることも少なくなっていた。が、その後は政治と宗教の関係を明確な形で訴えるようになる。
1978年の「私は信ずる」という著名な演説は、個人の経済的自由を最大化し、国家の介入を最小化するというサッチャリズムのエッセンスを、宗教にからめて論じている。
サッチャーは、当時のイギリスの行き詰まりの根底にあるのは、社会主義思想が蔓延した結果、人々が国家からの扶助への依存を深めたことだ、と見ていた。したがって、こうした精神構造を改めない限り、経済・社会の再生は望めないと考えていた。
さらに、労働運動がキリスト教と深く関わりを持ちながら発展してきたという特殊な歴史的経緯もあり、戦後イギリスでは保守主義より社会主義の方がキリスト教的な価値を体現しているという知的風潮があった。こうした中、メソジズムで育ったサッチャーが、保守主義が宗教的な見地からも道徳的な高みを取り戻す必要性を感じたのは自然な流れだった。
そういうわけで、サッチャリズムを経済政策の次元でとらえることは誤りであるといえる。サッチャーの目には、当時のイギリスが直面していた危機は、政策論だけで片付けられない道徳的な問題と映っていた。そして、その解決のためには道徳的な処方箋が求められていると考えていたのだ。
サッチャーが、イギリス初の女性首相として政治における「ガラスの天井」を打ち破ったことは、国際社会に大きなインパクトを与えた。サッチャー以降、先進国の政治トップに女性が就くことは珍しくなくなり、女性の政界進出も加速した。
しかし、サッチャー自身の女性への態度には複雑なものがあった。結婚し、子どもを持つサッチャーにとって、女性が職業と家庭を両立させることに対する偏見が、男性のみならず女性自身にも根強いことに嘆いていた。加えて女性的な美徳を欠いた「ギスギスした」キャリア・ウーマンに対する敵意もあったようだ。進歩的な女性からみると、サッチャーの女性に対する態度が鼻持ちならないと映ったのは当然で、こうした女性からは辛辣な批判も多く寄せられた。
10歳年上の男性、デニスと結婚したサッチャーだが、
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