2009年4月、著者は東洋大学陸上競技部の監督に就任した。同年1月の箱根駅伝で初優勝したすぐ後のことだ。
当時は、箱根駅伝の優勝に貢献した2年の柏原竜二がエースとしてチームをけん引していた。だが、主力メンバーが卒業したこともあり、チームは発展途上であった。
著者は監督就任後、埼玉・川越キャンパスにある陸上競技部の寮に家族と共に引っ越した。初めて寮に足を踏み入れた日、寮内の乱雑さに驚いた。監督不在で、統括する立場の人や汚くても注意する人がいなかったからだ。優勝トロフィーや盾は飾られておらず、ただ置かれたり積み上げられたりしている有様だった。誰も優勝を予想していなかったのだろう。
清掃がきちんとなされていなかったり、玄関が汚れていたりするのは、心が乱れているからだ。そこで、まずは著者を含めた全員で寮内を片付けることにした。同大学の硬式野球部は全日本大学野球選手権で4度の優勝経験のある強豪で、彼らの寮は整然とされていて、部員も挨拶がしっかりできていた。生活態度と競技実績、チーム力は比例するもので、それはどの競技でも同様だ。学業、清掃や挨拶、顔つきや素行は24時間つながっていて、すべて結果に出てしまうのである。
箱根駅伝の3連覇に挑んだ2010年度は、著者にとってもチームにとっても大きなターニングポイントだった。この年は、双子の設楽啓太・悠太兄弟などの有力な1年生が入学した一方で、エースの柏原が不調だった。柏原は心身の疲労によりスランプに陥っていたが、著者は焦らず、彼を信じて「大丈夫だ」と言い聞かせていた。
三大駅伝の初戦である出雲駅伝では、初めて柏原を起用せず、結果は4位。次の全日本駅伝では柏原を2区に起用したが、本来の躍動感ある走りが見られず区間4位、最終的なチームの順位は3位に終わった。だが、3年時まで駅伝の経験がなかった本田勝也が良い走りを見せ、彼の頑張りがチーム全体を救った。
柏原は年明けの第87回箱根駅伝(2011年)に向けて徐々に調子が上がっていった。そのタイミングで、出雲駅伝と全日本大学駅伝を制した早稲田大学の主力メンバー2人がケガをし、箱根駅伝に出られないことがわかった。それを受けた東洋大は「柏原の調子が上がっているから大丈夫だろう」と気の緩みが出てしまった一方で、早稲田大は欠場者の穴を埋めるために結束した。その差が、箱根駅伝の前半の攻防に表れることとなった。
1区では、早稲田大の大迫選手が早い段階で飛び出し、東洋大の川上遼平は8位と大きく差をつけられた。著者が区間配置に悩み、彼にそれを伝えるのが遅くなってしまったせいで、心の準備が十分にできなかったのだろう。監督が区間配置に迷うと、たいてい良い結果をもたらさないものだ。
東洋大は2区から5区で巻き返し、僅差で早稲田大を逆転して往路優勝を果たす。だが翌日の復路では早稲田大に逆転を許し、2位に終わった。
「エースを活かすチームと、エースに依存するチームではまったく違う」。この教訓から、
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