「無駄なことはできない」「体力を節約しなきゃ……」。疲れやすい体質で体力があまりなかったために、このような意識を小さい頃から持っていた。だからこそ、「なるべく無駄を省いて、ものごとの本質を効率良く掴みたい」と考えて生きてきた。多動的な人はトライアルの絶対量が多いから、失敗することはあっても成功例も増える。エネルギーが少ない人であれば、できるだけ考えてから行動する習慣を身につける。
このように、自分の体が語りかけてくることは、たいてい自分にとっての真実に近いものである。欠点に感じられても、とらえ方次第で自分の武器に変えていくことができる。
世の中には、このように自分の特徴や自分の置かれた状況を客観的にとらえられない人が多くいる。受験生の時にふと周りをみたら、成績の良かった人が途中からどんどん落ちていっていることに気づいた。そうした人たちは、勉強ができるようになることではなく、がんばること自体が楽しくなってしまったのだ。たしかに、そうして努力できることは信頼と評価につながる部分もある。しかし、成果につながらなければその努力には何の意味もない。
これは社会人の「学び」や資格取得でも同じである。スキルを身につけたいならば、努力そのものを楽しむという罠にハマってはいけないのである。むしろ、最短距離で能力を上げることに注力すべきなのだ。そして、「己を知ること」はこの学びの9割を左右する。
両親が共働きだったこともあり、小さい頃から、自分なりに段取りをして朝の準備を必死に覚え、それらを身に付ける必要があった。こうした環境で育つことで、子どもながらに「時間には限りがある」ことを自覚したのかもしれない。限られた時間の中でちゃんと自分の意志で決められなければ、次に進むことはできないという意識は芽生えていった。それでも、ひとつの時間にひとつのことしかできない子どもだった。
みんなはできることでも、自分はなぜかあまり上手くできなかった。それに、どんなに多忙でも頭と身体をフルに活用して、何ごとも乗り切れる万能な母親を間近で見ていた。だから、「わたしは母のようにうまくやれない」「自分は天才じゃない」と早いうちに自分の限界を意識してしまった。
そこで小学生なりに考えて出した答えは、人より時間をかければいい、というシンプルなものだった。ほかの人は無意識に無駄にしている移動時間や休憩時間、歯磨きの時間、5分程度の待ち時間といった隙間時間にフォーカスしていくようになったのだ。
何ごとにも要領が悪く人より多くの時間がかかったが、勉強だけは少し違った。自分で時間をつくり出しさえすれば、やればやるほど結果がついてきた。肝心の試験で点数が悪いことがあっても、最終的には自分は勉強ができるという謎の確信をもつようになった。隙間時間でも勉強し続けられたのは、それによって確実に「前へ進んでいる」感覚を得られたからだ。
学びで得た知識を活用して、自分で考え、自分のものにしていける力を身につけ、脳を喜ばせていく。この学習という行為は、長期的に繰り返されることで記憶が簡単には失われない状態になったことを指す。
記憶というと、教科書や単語帳をそのまま一語一句覚えること、というイメージを持つ人は多いだろう。
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