障害者は自分にとって、身近にいる「自分と異なる体を持った存在」だ。かれらについて言葉によって想像力を働かせ、視覚を使わない体に変身して生きてみることが本書の目的である。
見えない体に変身するといっても、単に視覚をさえぎればいいということではない。見えないことと目をつぶることは全く違う。視覚情報の遮断によって引き算的な欠如を感じるのではなく、視覚抜きで成立している世界そのものを実感することが必要である。それは、4本脚の椅子と3本脚の椅子の違いのようなものだ。もともと脚が4本ある椅子から脚を1本取ると、その椅子は傾いてしまう。しかし、脚の配置を変えて最初から3本で設計すれば、3本脚でも立てる。
見えない人は耳の働かせ方、足腰の能力、言葉の定義などが見える人とはちょっとずつ違っている。そうした視覚なしで成立しているバランスで世界を感じると、世界の見え方、すなわち「意味」が違ってくるのである。
「意味」は、「情報」と対置するとわかりやすい。「情報」は客観的でニュートラルであるが、受け手によって無数の「意味」を生み出す。たとえば「明日の午後の降水確率は60パーセント」という「情報」は、明日運動会を控えた小学生には「運動会が延期になるかもしれない」という意味になり、傘屋にとっては「明日は儲かるな」という意味になる。つまり「意味」とは、「情報」が具体的な文脈に置かれたときに生まれるものである。
見える人が見えない人と関わるときの態度は、一般的に「情報」ベースになりがちだ。それは、見える人が見えない人に必要な情報を与え、サポートするという福祉的な発想のもとになっている。点字ブロックや音響信号に代表される「情報のための福祉」は、障害者にとって不可欠ではある。ハンディキャップのある人とそうでない人との間の情報格差をなくすことが、社会的包摂には必要だと考えられている。
しかし、健常者にとっての障害者との関係が、情報を教えてあげなければという「福祉的な態度」にしばられてはいけない。健常者と障害者の間には、「サポートしなければ」という緊張関係、固定された上下関係だけではなく、お互いに笑い合うような普通の人間関係も当然ありうる。ここに「意味」ベースの関わりの重要性がある。
意味ベースの関わりにおいては、見える人と見えない人の間には、差異はあっても優劣はない。全盲の木下路徳さんに、見える人にとっての想像力とは何かについてこちらから説明していたとき、「なるほど、そっちの見える世界の話も面白いねぇ!」と叫んだ。見える人の世界をまるで隣人の家のようにとらえているのだ。「うちはうち、よそはよそ」という距離感があるからこそ、お互いの差異を面白がることができる。ちょっと不道徳に聞こえるかもしれないが、「好奇の目」くらいで互いの世界を見たほうが、相手との差異を面白がれるかもしれない。
先述の木下さんと大岡山駅から緩やかな坂道を下っていたとき、木下さんは「大岡山はやっぱり山で、いまその斜面をおりているんですね」と感想を述べた。自分にとってはただの坂道でしかなかった場所を、木下さんは俯瞰的で空間的にとらえていたことに驚いた。見える人が道を通るとき、看板や人の顔など目に飛び込んでくるさまざまな情報に意識を奪われ、今歩いている場所の地形を想像する余裕はない。見えない人は、こうした情報の洪水とは無縁である。音や匂いも氾濫しているけれど、木下さんの言葉を借りれば「脳の中に余裕がある」状態なのだ。
言うまでもなく、資本主義システムは過剰な視覚刺激を原動力にして回っている。都市において私たちはこの装置に踊らされがちだ。
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