学生時代にスポーツにのめりこんだ著者は、体操や卓球で抜きんでた成績を残す。「すべては練習量で決まる」を信条とし、「一番になるまでやめない」と決めたら徹底的にやり抜いてきた。
高校卒業後は一時期「燃え尽きて」しまったものの、体育会系で年上に可愛がられるタイプだった著者は、金融系の会社の面接を経てすんなり入社が決まる。それまでスポーツばかりしてきた著者は、簡単な漢字も書けず、ひらがなばかりの履歴書を提出した。これでは本部の審査を通らないと、面接をしてくれた支店長に教わりながら漢字で書き直すことになった。入社後も問題は続く。割り算ができないので利息計算もできなかった。人より遅れているから努力するしかないと感じた著者は、漢字も計算も猛特訓し、誰よりも長い時間働いた。
消費者金融の回収の業務を担当するようになると、相手の懐に入る術を身につけ、頭角を表すようになる。21歳のときには北海道・北見支店の支店長を任せられ、半年で支店の営業成績をトップにしてしまう。その後、北海道ブロック長を経て、25歳という異例の若さで全営業部隊のトップに立った。
所属していた消費者金融会社は他社へ売却されるが、会長に気に入られていた著者は、その後グループ内子会社の社長を7社ほど任せられ、様々な業種を経験していく。
雇われ社長時代、「もし業績が上向かなかったら、死んで詫びよう」と本気で思っていたという著者は、体の違和感など気に留めなかった。しかし、30歳を迎える頃、身体は悲鳴を上げ始める。2.0だった視力は働き出してから0.1にまで下がり、後天性無汗病という汗をかかない病気も発症。この病気は今も治らない難病である。「あんた、なんか死にそうだよ」と妻に言われるほど異常に顔色が悪かった。ストレスが身体の内外に噴出し、文字通り「限界」だった。
「そろそろ自分の事業をやってみたいな」と考えるようになっていたタイミングでもあった頃、妻の故郷である山形県天童市に住む親戚から愚痴を聞かされる。「農家に元気がまったくない。あんたが元気にしてくれ」と。すぐにその気になってしまう性格の著者は「俺が山形の農業を元気にしてやろう!」と意気込み、周囲の反対を押し切って、2011年3月に天童市に移住することを決める。
農業を始めた著者を打ちのめしたのが、農業市場と単価の問題だ。農作物の価格は、品質や原価とは無関係に決まる。多くの農家は通常、農業協同組合(農協)を通じて作物を出荷している。市場では、農作物の値段は競りで決まるため、値段は乱高下する。品薄の時期には倍になるし、品物があふれている時期は半額にもなる。
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