啓蒙とは一つの状態であるだけでなく、ある出来事、プロセスを指す。具体的には、18世紀のヨーロッパ北部に生じた歴史的な出来事にたいする呼び名だ。「ルネサンス」「産業革命」とも呼ばれるが、近代の起源と本質をはっきりととらえたものとして、啓蒙はその「真の名前」とされるべき有力な候補であろう。
啓蒙は、プロセスそれ自体にたいして正当性を与える性格を持つ。したがって、退行的であったり、反動的であったりするような「暗黒の啓蒙」などと言い出すことは、語の本質にかかわるような矛盾になりかねない。啓蒙された状態になるということは、なんらかの導きを受けいれ、したがうことを意味するのである。暗黒の時代につづいて、啓蒙がもたらされる。この進展はあきらかに、一つのモデルとなるようなものなのである。
ひとたびなんらかの真理が啓蒙され、それが自明のものと見なされると、もはや後戻りはありえないことになる。保守主義は矛盾した立場にあるものとして非難される。
しかし、2009年4月に開かれたピーター・ティールらリバタリアン思想家たちの討議では、民主主義的な政治にたいする幻滅が率直に表明された。リバタリアンたちは次第に、人が「彼らに注意を向ける」かどうか気にかけるのをやめはじめている。まったく別のもの、出口(イグジット)を探しはじめているのだ。リバタリアン的な声(ヴォイス)が民主主義のなかでかき消されるのは構造的に避けられない。「声」とは民主主義それ自体のことであり、民衆の意志を代表するものとされ、声を聞き届けさせることが政治である。世界を覆い尽くすこの大衆の喧騒に、リバタリアンがなにかをつけ加えようとなんの意味もない。〈平等〉対〈自由〉ではなく〈声〉に対する〈出口〉こそが目下高まりつつあるオルタナティブであり、リバタリアンたちは声なき戦いを選択しているといえよう。
かれらのような筋金入りの新反動主義者からすれば、民主主義とは絶望そのものであることになる。そこから逃れていくことは、ほとんど至上命令のようなものなのだ。
民主主義にたいするオルタナティブは本当に存在しないのだろうか。社会において主権が実現している状態である国家は、消しさることができない。それでも、民主主義を取り除くことはできる。国家を形式化してしまうのだ。これは、新反動主義の最シンパであるメンシウス・モールドバグが「新官房学」(ネオカメラリズム)と呼ぶアプローチだ。
国家は市民に「属している」のだという民主主義的な神話を打ち砕くために、資本家が誰に対して賄賂を支払っているのかを見極める必要がある。この資本主義的な政治形態において真に権力を持つに至った支配的存在は〈大聖堂〉(カテドラル)と呼ばれ、民主主義による汚職の領域を形成している。この政治権力を形式化することで、民主主義における賄賂が「企業としての政府」(ガヴ‐コープ)において株式の保有に転換されるのだ。そうなると国家の所有者は、企業としての政府のCEOを任命して、合理的な企業経営を行う。国家の関心事は長期的な株主価値の最大化として形式化されるため、住民は政治に対して興味を抱く必要がなくなる。企業としての政府が住民の支払う税にふさわしい価値を提供できない場合、住民は自らの税を別の場所に移すことができる。したがって、より魅力的で住民を惹きつけられるような国の運営をするようになるだろう。そこに声などいらない。ただ自由な出口だけがあるのだ。
民主主義は自由にとって致命的な脅威をもたらし、やがて確実に根絶させるだろう。
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