ナチス・ドイツおよび同盟国の軍隊は、1941年6月22日に独ソ不可侵条約を破ってソヴィエト連邦に侵攻し、1945年まで、一般に「独ソ戦」と呼ばれる戦争を続けた。この戦いでは、北はフィンランドから南はコーカサスまで、数千キロにわたる戦線において、数百万の大軍が、歩兵戦、空挺作戦、上陸作戦、要塞攻略などで、空前の戦いを繰り広げた。まさに第二次世界大戦の主戦場である。
ナチス・ドイツとソ連のあいだでは、ジェノサイドや捕虜虐殺といった無意味な蛮行が繰り返された。それゆえ惨禍も想像を絶する規模となった。第二次世界大戦における日本の死者は、戦闘員が210万ないし230万人、非戦闘員では55万ないし80万人と推計されている。一方ソ連は、戦闘員が866万8000ないし1140万人、民間人が軍事行動やジェノサイドによって450万ないし1000万人、疫病や飢饉によって800万から900万人亡くなった。公式には総数2700万人の命が失われたとされている。ドイツの死者も、独ソ戦以外の戦線も合わせて、戦闘員444万ないし531万人、民間人150万ないし300万人におよんだ。
ヒトラー以下のドイツ側の指導部は対ソ戦を、人種的に優れたゲルマン民族が「劣等人種」スラヴ人を奴隷化し、「ユダヤ的ボリシェヴィズム」を撲滅するための「世界観戦争」、すなわちみな殺しのための絶滅戦争であると規定していた。
そのような侵略者と対峙するソ連の独裁者スターリンは、コミュニズムとナショナリズムを融合させて、独ソ戦をかつてナポレオンの侵略をしりぞけた「祖国戦争」になぞらえ、ロシアを守るための「大祖国戦争」と規定した。ドイツ側は住民虐殺を繰り返し、ソ連側は報復感情による無法行動をエスカレートさせた。両軍の残虐行為は、合わせ鏡に憎悪を映したかのように拡大していったのである。
しかし日本では専門の研究者を除き、この「世界観戦争」という重要な側面が、一般に認識されているわけではない。これまでの一般的な理解は、ドイツ国防軍の将官の回想録や戦記の翻訳などによって形成されてきた。回想録の多くは、軍事的には素人のヒトラーが作戦指揮に介入し、ミスを繰り返して敗戦を招いたなどと、死せる独裁者に責任を押しつける主張を展開した。パウル・カレルによる戦記は日本でもベストセラーとなったが、ドイツ国防軍の犯罪を漂白する「歴史修正主義」に依拠していた。
だが、ソ連崩壊以後に史料公開や事実の発見が進んだことで、欧米の独ソ戦研究は飛躍的に進み、日本との理解・認識のギャップが大きく広がった。本書は、独ソ戦に関して、現在のところ史実として確定していることは何か、定説とされている解釈はどのようなものか、どこに議論の余地があるのかを伝えるためのものである。
世界各国に張り巡らされたソ連のスパイ網から、ドイツによる侵攻が迫っているとの情報が大量に送り届けられたにも関わらず、スターリンはそれらの情報を一切信じなかった。ソ連軍は無防備、無警戒のままドイツ軍の奇襲を受け、大損害を被ることとなる。
その理由はいくつか考えられる。
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