ジョン・フォン・ノイマンは1903年12月、オーストリア・ハンガリー帝国のブダペストで生まれた。中央ヨーロッパは古くから紛争の多い地域だが、ノイマンが生まれた時代は幸運にも平和な時代だった。当時のブダペストは人口がヨーロッパ第6位の大都市で、景観が美しいことでも有名な街だった。
ノイマンは裕福な家庭に生まれ、兄と弟とともに英才教育を受けていた。ノイマンは並外れた記憶力を持ち、幼少期から数学に興味を持っていたという。当時、多くのハンガリーの上流階級でそうだったように、ノイマンはギナジウムに入学する10歳まで家庭内で教育を受けて育った。ギナジウムは10歳から17歳まで8年間の一貫教育を行う学校だ。ノイマンは入学直後から「習字」「音楽」「体育」を除く全科目で最優秀の成績を収め、神童と呼ばれた。このときからすでにノイマンの頭脳は同級生たちをはるかに超えていたが、それを誇示するようなことはなく、むしろ周囲から浮かないよう努力していた。この周囲への気配りは生涯続いたという。数学に関しては、入学直後からすでに17歳の最上級クラスでも簡単すぎたため、大学からノイマンのために特別講師が招かれるなど、その天才ぶりを発揮していた。
ギナジウム卒業後、ノイマンは17歳で、大学を飛び越えてブダペスト大学大学院数学科に合格する。以降は「化学ブーム」のさなかに父が進学先として勧めたベルリン大学応用化学科と両方に籍を置くこととなる。
1920年代のワイマール共和国・ドイツは第一次大戦敗戦により、社会情勢が不安定になっていた。その悪影響を懸念した父の強い勧めにより、ノイマンはヨーロッパで最高水準と言われていたスイス連邦工科大学チューリッヒ校応用化学の編入試験を受け、合格した。スイス連邦工科大学は、アインシュタインが不合格となった超難関大学だ。ノイマンはブダペスト大学大学院数学科にも籍を置いたまま、どちらの学問も両立させた。スイス連邦工科大学チューリッヒ校応用化学科で応用化学の学士号を取得、さらに学術雑誌に掲載された論文「集合論の公理化」がブダペスト大学大学院数学科の学位論文として認められ、博士号を取得した。22歳で前代未聞の「学士・博士」となった「天才数学者ノイマン」はヨーロッパの数学界に知れ渡った。
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