大衆がついに社会的権力の座についた――これが今日のヨーロッパ社会において、最も重要な事実である。大衆というのは、自分自身を指導することもできなければ、もちろん社会を支配統治することもできない。
ヨーロッパが大衆化したということは、その民族や文化が危機に直面しているということを表している。かつて大衆は、社会という舞台における背景的な存在だった。だがいまや舞台の前面に躍り出てきている。もはや舞台に特定の主役はいない。いるのは合唱隊のみである。
大衆とは、すなわち「平均人」のことだ。これは数の多寡に限らない。大衆とは心のあらわれである。大衆とは、善い意味でも悪い意味でも、自分自身に特殊な価値を認めず、自分は「すべての人」と同じだと信じ、それに喜びを見出すすべての人間を指す。逆に大衆ではない者とは、たとえ自らの能力に不満を覚えていたとしても、常に多くを自らに求める者である。
つまり人間というのは、次の2つに分けられる。自分の人生に最大の欲求を課すタイプと、最小の欲求を課すタイプだ。優れた少数者は前者、大衆は後者に当たる。彼らを分けるのは、生まれの出自ではない。その資質、精神性である。
大衆は今や社会の主役となり、かつては少数者のみのものだった施設を占領し、楽しみを享受している。そのこと自体はかまわないと思うかもしれない。だが問題は、大衆が享楽の面だけではなく、政治の面にも進出してきていることにある。
近年の政治的変革とは、すなわち大衆の政治権力化だ。かつてデモクラシーは自由主義と法を強く重んじ、大衆はその運営を専門家たちに一任していた。だが今の大衆は、物理的な圧力をもってして、自分の希望と好みを社会に押し付ける。
こうした変化は政治だけでなく、その他の知的な分野でも起こっている。今日の大衆が論文を読むのは、そこから何かを学ぼうとするからではなく、自分の持っている平俗な知識と一致しない場合にその論文を断罪するためだ。しかも始末が悪いことに、今日の大衆は、おのれが大衆の一人であることを承知しつつ、だからこそ大衆であることの権利を高らかにうたい、いたるところでそれを貫こうとする。
大衆は今、いっさいの非凡なるもの、特殊な才能を持ったものを退けようとしている。彼らと違う考えのものは、社会から締め出される恐れすらある。これが現代の恐るべき事実だ。
今日の私たちは、大衆が支配する残酷な社会を生きている。元来、社会というのは好むと好まざるとにかかわらず、常に貴族的であった。ここでいう貴族的というのは、きどった顔でしかめ面を浮かべるような者のことではない。むしろその逆だ。貴族というのは、
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