いかなる技術、研究(メトドス)も、いかなる実践や選択も、何らかの善(アガトン)を求めている。これらは、活動それ自体が目的となる場合もあれば、活動とは別に何らかの成果が目的となる場合もある。
また実践や技術、学問に多くの種類があるように、その目的も様々だ。そのなかでも、全体の構造を想定しながら一つの能力へと束ねていく、いわば「棟梁」的な営みのほうが、それに従属する営みの目的よりも望ましい。前者の存在があるために、後者が追求されるからだ。
われわれが行うすべてのことを包括するような目的が存在するならば、それは明らかに「善」(タガトン)のことであり、「最高善」(ト・アリストン)でなければならない。とすると、このような「善」の知識は、「われわれの生活に対しても大きな重さをもつもの」であるはずだ。
したがって、「善」とは何であるか、いかなる学問や能力に属するものなのか、輪郭だけでも把握しておきたい。
「善」は、最も棟梁的な位置にあるものに属するだろう。同様の性質をもつものとして、政治(ヘー・ポリティケー)が考えられる。政治はどの学問をどれくらい学んでどう役立てるべきか定めるものであり、立法の根拠となる。「人間というものの善」(ト・アントローピノン・アガトン)こそが政治の究極目的であり、善の研究とはある種の政治学的な研究を指すのだ。
いかなる知識も選択も何らかの善を求めるのだとすれば、政治が希求するところの、達成しうる最上の善とは何であろうか。大抵の人は、それは幸福(エウダイモニア)にほかならないと述べる。しかも、「よく生きている」(エウ・ゼーン)ことと、「よくやっている」(エウ・プラッテイン)ことは、「幸福である」(エウダイモネイン)ことと同じ意味であると理解している。
しかし、その「幸福」とは何かということを考え始めると、諸説出るようになる。一般のひとびとは、快楽・富・名誉といったわかりやすい何かを口々に挙げる。同じ人の中でも、病の時は健康、貧しい時は富といったように異なるものを求めるものだ。一方、プラトン派のひとびとは、これらの多くの善を善たらしめる大元となるような、それ自体で存立できる「善そのもの」を考えた。
しかし、そのような「善そのもの」についての知識があるとすれば、種々の学問や技術がそれぞれに追求する善をもつという実際に背いているとも言える。
領域の異なった実践や技術において、善はそれぞれに違って見える。医療における健康のように、あらゆるはたらきや選択において目的となるものが、それぞれの領域における善だ。このように目的(テロス)はいくつも存在するようだが、たとえばわれわれは富のために富を目的とするわけではないように、すべての目的が必ずしも究極的(テレイオン)な目的とはならない。
したがって最高善とは究極的な目的だと考えられる。それは「それ自身として追求に値するところのもの」であり、「決して他のものゆえに望ましくあることのないようなもの」だ。この性質を最も持っているのが、「幸福」であろう。幸福それ自身のためにわれわれは幸福を望む。名誉も快楽も知も、それがあれば自分が幸福になると考えて選択するのだ。
究極的な「善」は、自分のみならず親しいひとびとも、国の全市民にとってもそれがあれば充分という種類のものである。望ましい生活、何の不足も不自由もない生活をもたらすものにほかならない。幸福は、どうやらこのような性質を持っているようだ。
しかしここまでの話もやはり、「最高善とは幸福のことである」という異論の起きないことがらを語っているにすぎない。ここで真に求められているのは、「幸福とは何であるか」がより判然と語られることだ。そのために、人間の機能(エルゴン)についてきちんと把握しよう。
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