寓話という言葉を『第六版 新明解国語辞典』(三省堂)で引くと「登場させた動物の対話・行動などに例を借り、深刻な内容を持つ処世訓を印象深く大衆に訴える目的の話」とある。有名なのはイソップ寓話や仏教寓話などだ。本書では何らかの教訓を読みとることができれば寓話であると解釈し、聖書で語られるたとえ話や民話、笑い話なども取り上げている。
寓話の目的は教訓や真理を伝えることであり、物語はそれらを届けてくれる“運搬手段”である。言い換えると、寓話においては教訓や真理こそがその核であり、ストーリーはそれらを包む“外皮”だ。教訓や真理は抽象的でとっつきにくいが、物語は具体的で動きを持っており、わかりやすい。ストーリーの面白さに気をとられているうちに、人間や世界、人生について学べるのである。要約ではいくつかの寓話と、そこから得られる教訓を取り上げる。
南禅寺の門前に「泣き婆さん」と呼ばれる女性がいた。彼女は雨が降っても天気が良くても泣いている。不思議に思った和尚が話を聞くと、彼女には息子が2人おり、それぞれ雪駄(せった)屋と傘屋を営んでいるという。晴れれば傘屋が困り、雨が降れば雪駄屋が困るだろうと考えると、息子がかわいそうでたまらなくなって泣いてしまうのだ。これを聞いた和尚は「わしがひとつ、一生涯うれしく有難く暮らせる方法を教えよう」と次のような話をした。
「禍福はあざなえる縄の如しといって、福も禍もどちらか一方だけが続くものではない。お前は不幸せなほうばかりを考えて幸せのほうを考えていないから、いつも泣いていることになるのだ。天気のいい日は雪駄屋が繁盛し、雨の日は傘屋が繁盛すると考えれば、雨の日も晴れの日もうれしく過ごせるだろう」
それ以来、泣き婆さんは楽しく暮らしたという。
物事を見る姿勢や態度、立場を変えれば、世の中の見え方も変わる。私たちは物事の良し悪しを軽々しく判断してしまいがちだ。しかし、良し悪しは立場によって異なる。ある出来事が自分にとっては福であっても、他の誰かにとっては禍かもしれない。そして逆もまた然りなのである。
荘子が山を歩いていると、立派な大木があった。木こりたちは「使い道がないから」とその大木を切ろうとしない。荘子はそれを見て、「この大木は役に立たぬおかげで天寿をまっとうできる」と語った。
その後、荘子は友人の家で歓待を受けた。召使いの少年が「よく鳴く雁と鳴かない雁、どちらをつぶして料理しましょうか」と主人に聞くと、鳴けない雁が選ばれた。
大木は役に立たぬから天寿をまっとうし、雁は役に立たぬから殺されてしまった。役に立つことと立たないことと、どちらがいいか。そう少年にたずねられ、荘子はこう答えた。
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