本書の問題提起は、この複雑な世界を複雑なまま生きることが、いかにして可能となるかということである。世界は複雑なので、何が原因で何が結果かということも、単純に理解できるものではない。
しかし、人間の認知には限界があるため、複雑な世界を複雑なまま受け入れるのは難しい。複雑なまま理解できずにいると、対応することもできない。したがって、意識は世界を単純なものとしてみなし、認知コストを下げるための装置として生み出された。
だが、インターネットやコンピュータの登場で、認知や対策の能力が上がれば、徐々に世界を複雑なまま扱えるようになってくる。
ネットはオープンな特性を持ち、資源の囲い込みを嫌い、あらゆるものをシェアしようとする。一方、現実社会では囲い込みに満ちあふれている。これを【膜】の現象と呼ぶ。
また、ネットの自立分散性は、中央集権的な制御を排除するが、現実は中央集権的な組織に満ちている。これを【核】の現象と呼ぶ。
近代の経済システムは、私的所有を認め、資本が労働力を組織化し、企業という膜の中に囲い込むことで成立している。企業では、経営陣が核となって組織を制御し、資源配分を決定する。本来ならば、各人が社会に与えた価値に対して価値が与えられるべきなのに、会社の利益さえ上がればよくなる。
貨幣は経済システムの血液であり水流のようなものだ。だが資本は蓄積されやすく、水流によどみを生む。気づけば人々は資本に制御され、資本蓄積が自己目的化してしまっている。
近代の政治における国民国家という概念の成立によって、国境と、国民のメンバーシップという、内と外とを分ける膜が明確化されてきた。権力は一人ひとりの意志の委任から成立しているはずなのに、権力構造は国民の意志どおりに執行されることをしばしば拒んできた。そして国民からの委任の維持もままならなくなり、政党や派閥の間での権力闘争が自己目的化してしまう。権力もまた、委任という水流によどみを生み出す。
これら経済と政治の歴史で繰り返される問題は、社会システムにおける膜と核の問題とも言える。膜と核の問題は、人類という種に限らず、生命論として根深い起源を有する。
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