「盛り場」とは、いったいなんだろうか。
我々は日常「盛り場」を、飲食店・商店・娯楽施設といった商業的・文化的な施設が集中し、恒常的に多数の人々が集まる一地区として考えている。こうした認識は、地理学や社会学における盛り場概念の基調ともなっている。
しかしこのような規定は、「盛り場」の「動き」を捉え損ねている気がする。そもそも「盛り」とはエネルギーの高い、高揚した状態を指していると考えられる。すなわち「盛り場」とは、「もともとは流動的で一時的な『盛(サカリ)』を他の場所よりも濃密に抱えた空間」だ。この言葉の本来の重心は、「容器」としての場所よりも、「『中身』である『盛』そのものにある」のである。
つまり「盛り場」は、「施設の集合や特定の機能を持った地域としてある以前にまず〈出来事〉としてある」。このように再規定することで、盛り場研究は社会史的ないし人類学的なものへと移行していく。
こうした〈出来事〉としての盛り場における人々の振る舞いは、「その盛り場固有の秩序化の原理(社会的コード)」に基づいて増幅されてきた。すなわち、盛り場についてより構造的に理解するためには、こうした社会的コードがどのように生成されてきたかを明らかにすることも必要なのだ。
社会史の研究はこうした原理を、祭りの記憶などの共同性の感覚に根ざした集合的心性として捉えてきた。しかし、近代的諸価値が展示され消費されていくような、19世紀後半以降の新しいタイプの盛り場については、社会史的都市研究のなかでも明らかにされてこなかった。
そこで我々は、「『盛り場』は〈出来事〉なのだという認識をあくまで保持しつつも、〈容器〉の側面、すなわち出来事を包囲し、位置づけている諸装置の側面にもっと注目していく必要がある」。すなわち、出来事を秩序づける社会的コードがそれに関わる人々の協働的な関係から生まれるというだけでなく、その関係自体が出来事の場を構成する諸装置のなかに埋め込まれている点が重要なのだ。
盛り場を舞台装置として捉えるのであれば、〈出来事〉としての盛り場を分析する方法論的視座を、「上演論的なパースペクティブ」と呼ぶことができるだろう。
都市における資本なり行政なりは「盛り場=出来事」をかなり意識的に〈演出〉しており、そこに集う人々はその〈上演〉に参与する〈演者=観客〉として把握することができる。「盛り場」はまず〈出来事〉としてあるが、それは〈演者=観客〉のまなざしのなかで構造化され、あるいは意図的に演出されていく可能性があるのだ。
そうした盛り場の変化については、資本主義経済の発展や都市の機能分化といった外的な要因ではなく、全体社会レベルでの想像力や感受性のあり方の変容とどのように結びついてきたのかを考えなくてはならない。
明治10年、14年、23年と東京の上野で開かれた内国勧業博覧会は、「新しい意味の秩序の空間」を成立させていった。そしてこの空間が、「民衆の身体に新しいまなざしを要求し、それを可能にもする近代的都市空間のひとつの原型をなしていく」。
1867年のパリ万国博や1873年のウィーン万国博に代表される西洋の博覧会とは、すべてを記号化し整序するような性格のものであった。そこでは分類・比較する超越的な視線によって、近代的な世界の模造が構成されていた。
明治における内国博も、こうした近代的なまなざしのもとに企画され、商品の価値を比較・選別するような目線を民衆に要求する思想が展開されていた。博覧会を「民衆教化のメディア」にしようとしたのだ。
実際にはその意図に反して見世物的性格を強めていくが、博物館は文明開化の時代における「一種の通過儀礼」となり、同時代の都市空間に大きな影響を与えていった。そのうちもっとも重要なものが勧工場(かんこうば)である。
勧工場は後に百貨店の原型となる店舗形式で、さまざまな商品を正札つき現金掛値なしで陳列展示していた。空間構造は初期の博覧会に近い形式から、今日の商業ビルにも似た、複数階建ての建物の集合に変わっていった。この変化は、商品を見て歩くことそのものが楽しみとなった観客の新しいまなざしと対応している。
こうした勧工場が集中して建設されたのが銀座という街であり、そこにおける「まなざしの経験」は百貨店にとって代わられたあとも脈々と受け継がれている。たとえば後に一斉を風靡する「銀ブラ」という言葉に象徴されるような、ショッピングそれ自体を楽しむような価値観は、この時点にその萌芽を見ることができる。
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