東京四谷にある住宅街に自分の店をオープンしたのは1985年のことだ。周辺には飲食店がまったくなく、夜は真っ暗になるような場所である。だがぼくはある屋敷をひとめで気に入ってしまい、迷わず玄関の呼び鈴を押して主人にこう言った。「この家を貸してくれませんか?」
当時のぼくは30歳前で、貯金も家もない、無名の若者だった。あるのは最高のレストランで積んだ8年間の経験と、自分の料理の腕に対する根拠のない自信だけ。その場で断られて当然の申し出だった。
ところがその家の主人は寛大だった。「わかった。今日はもう遅い。来週にでも詳しい話を聞こう」。イエスの返事をもらったのは1週間後のことだ。
そうしてオープンした「オテル・ドゥ・ミクニ」には、国内外から30万人を超えるお客様に来ていただいた。
それから37年。2022年の年末に「オテル・ドゥ・ミクニ」を閉めることにした。ずっと心の底で温めていた夢を実現するためだ。
ぼくは北海道の日本海側にある、増毛(ましけ)という漁師町に生まれた。
小学2年生くらいから父と船に乗るようになり、高学年になると、魚市場に売りに行くのもぼくの役目になった。一斗缶にウニやアワビを詰めて背負い、朝6時半の汽車で市場に運ぶ。
ぼくを高校に行かせるお金なんて、うちにはない。中学を卒業すると、札幌の米屋で住み込み従業員として働きながら、短大併設の別科調理専修夜間部に通うことになった。
米屋での仕事を終えると、お嬢さんが作ってくれた夕食を食べて学校に行く。お嬢さんは栄養士の資格を持っており、食卓にはいつもハイカラな料理が並んだ。
いちばん衝撃を受けたのはデミグラスソースのかかったハンバーグだ。こんな肉は食べたことがない。この黒いソースは毒じゃないのか――。ドキドキしながら仲間たちを盗み見ると、あたりまえのように食べている。
空腹と好奇心に負けて、箸の先でひとかけらだけつまんで口に入れる――こんな旨めえもん、一度も食ったことない。べた褒めするぼくに、照れたお嬢さんは「これは家庭のハンバーグ。グランドホテルのハンバーグはこんなもんじゃない」と言った。
このとき、「グランドホテルのコックになって、日本一のハンバーグを作ること」がぼくの夢になった。お嬢さんは「グランドホテルは中卒じゃ雇ってくれないと思うよ」と言ったが、何か手があるはずだ。
チャンスは突然訪れた。夜間学校の卒業記念行事として、札幌グランドホテルでテーブルマナー研修を受けることになったのだ。ぼくの心の中に、ある計画が浮かんだ。
研修の最後に、ホテルの人が厨房を案内してくれる。ぼくは話を聞くふりをしながら、すこしずつみんなから遅れて、列の最後尾につくようにした。そして洋食の厨房まで来ると、隙を見て調理台の陰にしゃがみこんだ。他のみんなは気づかず厨房を出ていく。
3,400冊以上の要約が楽しめる