時計のような自動機械は人工的な生命であると言える。心臓はバネであり、神経は紐、関節は歯車であって、これらは設計者が意図した通りの運動をもたらすからだ。人間はこのように、神の創造を技術によって模倣して、自動機械のような人工的動物を作り出すことができる。
技術はやがて、自然のもっとも優れた作品である〈人間〉を模倣して、「政治的共同体」あるいは「国家」と呼ばれる「リヴァイアサン」を創造する。リヴァイアサンは人間よりもはるかに巨大で、力も強く、人々を守るためにできている。〈主権〉は人工的な〈魂〉であり、〈為政者〉や〈役人たち〉は人工的な〈関節〉だ。そして、義務を遂行させる〈賞罰〉という〈神経〉を通して身体全体に命令が伝えられる。この政治体を作り上げる結合、統合における信約は、神が世界を創造した際の、「人間を造ろう」という布告に似ている。
本書ではこの人工的な人間の本性に関して考察しているが、要約では次の2点についてまとめる。第一に、素材であり製作者でもある人間について。第二に、リヴァイアサンはいかなる信約によって作られたのか、主権者の正当な権力と権威は何か、それを維持し、または解体するのは何か。
人間の思考は、すべて「感覚」に由来している。感覚は、外部の物体(対象)の運動により目や耳などの器官に刺激が与えられることによって生じ、心象を生み出す。対象がなくなっても私たちはその映像を保持できる。それが時間とともに衰えゆく感覚、「想像」だ。
そして、言語やそれ以外の記号によって与えられる想像が、〈理解〉である。言語がなければ、人間には政治的共同体も、社会も、契約も、平和もなかっただろう。人間は、想像と言葉による思考を行い、優れた論理的な推論を得ることで「学問」に到達する。
動物には2つの運動がある。脈拍、呼吸、消化、排泄のような、出生から始まり生涯を通して継続される〈生命的運動〉と、意志にもとづいて、心象として浮かんだとおりに身体を動かす〈動物的運動〉だ。したがって後者の運動のきっかけは想像作用である。それが、歩くこと、話すことなどの目に見える行為の前に現れる場合、「努力」と呼ばれる。その努力が、それを引き起こしたものに向けられると、「欲望」「欲求」となる。一方、努力が何かから離れようとする場合、「嫌悪」と呼ばれる。
人があるものを欲求するときには「愛する」と言われ、何かを嫌悪するときは「憎悪」と言われる。食事や排泄への欲望のように、生まれつき備わっている欲望や嫌悪もあるが、その数は多くない。
人間の欲望、欲求の対象は何であれ、その人にとっては善となり、憎悪、嫌悪の対象は悪となる。善悪はその語を用いる人の人格との関係において決まるので、単純かつ絶対的で本性にもとづく善悪の基準は存在しない。生命的運動を強める快楽は善の感覚であり、不快は悪の感覚である。また、熟慮の末にある行為を行うか回避するかに直結する最後の欲望または嫌悪を「意志」と呼ぶ。
人間の「力」とは、未来における明確な善を獲得するための手段であり、容姿や技能、高貴さといった身体や精神的な強さによる〈生来的な力〉と、財産や名声、幸運などの〈道具的な力〉がある。人間の力が最大になるのは、きわめて多くの人間の力が合成されるときであり、人々の力が同意によって一つの政治的な人格に合一されるときである。
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