「なぜ人間のクローンをつくることは悪いのか」「なぜ自然を守らなければならないのか」。倫理学は、こうした問いにつきまとう「何が善くて、何が悪いのか」を考える学問だ。そして倫理とは、「私たちが人として従うべきルール」のことである。SF、つまりサイエンス・フィクションでは、現在よりも発展した科学技術が浸透した社会や、ほとんどの人類が滅亡したあとの世界が描かれていたりする。SFマンガは、倫理についての問いを考えるのに適しているといえる。
日常生活で倫理と向き合う場面は多い。たとえば、「自分のお金は自分のために使ってよい」ということについて、そのお金の一部を「パートナーのために使うべき」「募金や寄付にまわすべき」と考える人もいる。あるいは「約束を破ってはいけない」ということについて、その約束を忘れていて結果的に破ってしまった場合、「絶対に許せない」という人もいれば、「一回なら許してもよい」と考える人もいる。
科学においても、動物の体内で人の臓器をつくることは技術的に可能となっているが、「正当な目的があれば許される」と思う人もいれば、「いかなる目的があるとしても許されない」と考える人もいる。
倫理学を学ぶことには、3つのメリットがある。1つは、こうした問題に対して、ものごとの見方が変わり、自分の偏見を見つめ直す機会となることだ。2つ目は、「倫理的な判断や行動の原則をつくるのに貢献する」ことである。科学の発展は現時点での倫理の是非を問うことにもつながるが、意見が対立する場面で倫理学が一定の指針となりうる。そして3つ目は、「倫理がもたらす危害を防ぐ」ことだ。倫理に従う理由を問い返し、理由なく特定の集団を排除したりしないようにするのである。
「ドリー」と呼ばれたクローン羊がつくりだされて以来、ひとつの細胞や個体から同じ遺伝子を持つ個体をつくりだすクローン技術は、すでに人間のクローンをつくり出せるまでに発展していると言われている。
手塚治虫の『火の鳥 生命編』には、法律で禁じられているクローン人間を生み出しハンターに殺させるテレビ番組をつくろうとする話がある。プロデューサーが訪れた研究所が、世界で初めて哺乳類のクローン化に成功したのは、火の鳥の力だということを知る。しかし、火の鳥によってつくられたのはプロデューサー自身のクローンだった。そこから、「本物」と「クローン」を区別しないハンティングが始まる。火の鳥は、私利私欲のために生命をもてあそぶ行為に対して罰を与えようとしたのだ。
ハンティングの対象になるクローン人間には殺人罪が適用されないが、クローン人間を殺したハンターが後味の悪さを覚えるというシーンも描かれる。本物とクローンをいかにして見分ければよいのか。クローン人間は本当にゲーム感覚で殺してよい存在なのか。その問いの先に、この作品は、「本物であろうがクローンであろうが、人間を人間として扱うことの重要さ」を訴えかける。
虫や動物、ペットなどのさまざまな生命への向き合いかたは、人によって大きく違う。食肉用の家畜に対して特別な感情を持たない人もいるし、文化や風習によって生き物に対する価値観が異なる場合もある。先述のクローンなども含め、こうした「どの生命をどこまで配慮すればいいのか」という問題について描いているのが、荒川弘の『鋼の錬金術師』だ。
3,400冊以上の要約が楽しめる