メタバースという仮想空間で生きることが、素晴らしい夢であるかのように語られるのはなぜだろう。
政治思想家のハンナ・アーレントは、人間が宇宙開発を行う動機について、宇宙そのものに価値を求めるのではなく、「人間が地球において与えられる条件から逃れたいからである」とする。こうした「地球疎外」と同じ構造は、メタバースへの欲望にも現れている。メタバースは、「物理空間に縛りつけられている人間がようやく物理空間を脱出する」ためのものと捉えられているのではないか。「地球疎外は『物理空間疎外』へと進化した」のだ。
アーレントは宇宙開発の政治的背景を問うた。私たちは、メタバースのそれを問わなくてはならない。この場合の「政治」とは、「私たちがこの世界で他者とともに何かを始めること」を指す。
メタバースへの欲望には、人間の現在地の何が反映されているのか。そしてメタバースは、他者あるいはこの世界との関わりをどう変えていくのだろうか。
メタバースの実践は実に多様であり、その定義は明確に決まっていない。成立条件はいくつかあるが、そのなかで、メタバースが他の仮想空間と区別される独自性として著者が挙げているのが、空間性と没入性(空間的な没入性)だ。メタバースのインフルエンサー・バーチャル美少女ねむの定義によると空間性とは「3次元の空間の広がりのある世界」であり、没入性はAR/VRなどの没入手段によって「まるで実際にその世界にいるかのような没入感のある充実した体験ができる世界」を指す。
ヘッドマウント・ディスプレイの原型となる「ダモクレスの剣」を1968年に開発した計算機科学者のアイバン・サザランドは、「究極のディスプレイ」は「部屋」型のディスプレイであると語った。その条件は、①物理空間とは異なる領域であること、②ユーザーと映像がインタラクションすること、③ユーザーにとって没入感があることであり、これはメタバースにも当てはまるだろう。
メタバースに固有の空間的な没入性はそのまま、「私たちにとっての体験のリアリティ」となっている。ではそのリアリティとは何なのだろうか。
はたしてメタバースは「もう一つの現実」なのだろうか。この問いは、「メタバースを物理空間から区別することができ、かつ、物理空間が現実であること」を前提としたうえで、「メタバースが物理空間と同じように現実だと認められるか」を考えるものだ。
私たちは夢と現実を区別できているように見える。しかし、夢が完全に構造化されていて、その構造化に多様な可能性がありえるとしたらどうだろう。私たちはそうした夢を、覚醒時とは異なる現実、すなわち「もう一つの現実」として認めるのではないだろうか。現代オーストラリアの哲学者、デイヴィッド・チャーマーズは、「完全没入型」のVRデバイスによる体験が構造化された夢に限りなく近いことを指摘する。
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