著者には日本の宗教家という立場で、世界各国の政治家や実業家と交流する機会がある。そのたびに、仏教や禅の教えについて熱心に聞かれるという。世界のリーダーたちが注目しているのは、仏教の中でも特に禅の考え方である。禅は「ZEN」という言葉として、今や世界的に広く認知されている。
なぜ世界の第一線で活躍する人たちが禅に魅了されているのか。その理由は、物質的には不自由がなくなってきているため、精神性を求める人たちが増えているからではないか、と著者は考えている。著者が強調するのは、仏教を信じたからといってすぐに何かが得られるわけではないという点だ。仏教、特に禅の教えは何かを「得る」ための手段ではなく、むしろ何かを「失う」ためのものである。仏教がめざすのは「ゲイン」ではなく「ルーズ」だ。つまり、何かを新たに手に入れるのではなく、むしろ今まで積んできたものを崩していくために、経を唱えて坐禅をする。失うとは、余計なものを削ぎ落とすことであり、それによってもっとも大切な本質に目を向けるということなのである。
禅に影響を受けた外国人として最も有名なのはおそらくスティーブ・ジョブズだろう。彼が禅から得た影響は、アップル製品のシンプルで美しいデザインの中に息づいている。余計なものをなくして本質と向き合う。こうした禅の考え方は、普遍的なものであるからこそ、文化を問わず多くの人の納得を得られるのだろう。
また、禅は経典を勉強するのではなく、坐禅を組んだり掃除をしたりするなど、身体で実践することを重視するため、言葉がわからなくても問題なく体験できるのである。こうした点が、キリスト教徒やイスラム教徒にも幅広く受け入れられている理由の一つだ。
そもそも、文字で書かれたものは受け取り手の解釈にゆだねられてしまうため、言葉で仏教の本質を伝えるのは難しいと考えられている。よって、文字や言葉ではなく体験で悟りをめざすのだ。
禅を体験した外国人の多くは、「なぜこんなことをするのか」と疑問を抱くという。なぜ掃除がそんなに大切なのか、なぜ食事の作法がこんなに細いのか。論理を重んじる西洋の人々にはなかなか理解されない。
しかし、重要なのは「実践する習慣」を身につけることだ。そうすると、一見意味のないように見えることの背後にあるものが見えてくる。一方、西洋の文化では一つひとつの行動に因果関係、そしてゲインを求めるため、禅の教えがなじみにくいという面がある。そこで、実践重視の考え方に共感できるかが、外国人が禅の世界に入ってこられるかどうかの分かれ目となる。
食事のルール一つとっても、禅が良しとする動作はすべて考え抜かれた究極形であり、無駄なものは何ひとつない。こうして、禅の教えを実践に移す中で、理屈を超えたところで即座に反応して適切に行動できるようになるのである。
禅はインドで生まれ、中国へと広まった。日本へは宋の時代に中国から伝わり、その後は日本独自の形で発達した。日本から西洋の国へと禅を広めた立役者として知られているのは、『禅と日本文化』を書いた鈴木大拙(すずき だいせつ)先生である。彼は晩年、日本人の教え子に「アメリカ人に禅がわかるのでしょうか」と聞かれたときに、「君たちに禅がわかるのかね」と答えたそうである。
つまり、禅は日本人固有のものはなく、人種や国を問わず、やる気があれば誰でも悟れるものだと彼は考えていたのだ。実際のところ、日本人が外国に広めていくだけでなく、外国人が日本に来て修行をし、その経験を広めるケースも近年では増えている。
キリスト教やイスラム教は一神教であり、「お釈迦様は自分たちと同じ人間」だと考える仏教とは異なっている。では仏教の中身は同じかというと、そうではない。仏教が広まった国や地域によって、その考え方も習慣もかなり異なっていることがわかる。
仏教は日本やチベットで主流な大乗仏教と、東南アジアを中心に広まっている上座部仏教の2つに大別される。例えば、中国、ミャンマー、タイなどでは、お坊さんは結婚できない、肉が食べられない、お酒が飲めないなどと厳しいルールが課されている。ただし、坐禅中に寝ていたり掃除が適当であったりするなど、規律は比較的緩い。
一方、日本ではルールはそこまで厳しくないが一挙手一投足にこだわる。また、日本の禅は言葉ではなく実践を重視するが、チベット仏教は実践だけでなく知識面の勉強もしっかり行うという特徴がある。このように、同じ仏教であっても、国や地域によって特徴はさまざまなのである。
最近、グーグルやインテルなどの世界的な優良企業でも取り入れられている「マインドフルネス」という瞑想法がある。やり方は坐禅と同じで、静かに座って呼吸に集中するというものだ。
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