「チャンスを逃すな」。この信条はレイ・クロック(以下、レイ)がペーパーカップのセールスをしていた頃から、巨万の富を築くに至るまで寸分も変わっていない。独立し、マルチミキサーの営業を軌道に乗せ始めてからも、レイは次なるビジネスチャンスを探していた。「未熟でいるうちは成長できる。成熟した途端、腐敗が始まる」。これがレイの座右の銘だった。
あるときから、レイのもとに顧客からこんなオーダーが相次いだ。「マクドナルド兄弟の店で使われているマルチミキサーと同じものを売ってほしい」。店は、外食産業の成長著しいカリフォルニアにあるという。大いに好奇心をそそられたレイは、兄弟の営む店を自分の目で観察するべく、現地へ飛んだ。これは1954年、レイが52歳のときのことである。
店内は整然と清潔に保たれており、スタッフも好印象だった。サービスとメニューを最小限にとどめ、提供プロセスを簡素化することで、品質管理が行き届き、店は驚くほどの繁盛ぶりを見せていた。ハンバーガーやフライドポテト、飲み物がテキパキとお客に提供されていく。このシステムにレイは心底ほれ込んだ。「今までに見た中で最高の商売だ」。
レイは、マックとディック、二人のマクドナルド兄弟に自己紹介をした。その晩のうちには、マクドナルドの店舗を、国中の主要道路沿いに展開させるというプランが頭に浮かんでいた。もちろんレイは飲食業のプロではない。アウトサイダーとしての目で事業の将来性を見抜いたのだ。
まもなくレイは兄弟をディナーに誘い、製造工程を見学させてもらった。この単純な作業ならば、誰でも言われたとおりにこなせるはずだ。そう確信したレイは、自分の扱うマルチミキサーを置いてもらい、ともに全米でチェーン展開をめざそうと兄弟に切り出した。ところが、兄弟は現状に満足しきっており、積極展開する気はさらさらない。「誰かほかの人を雇えば働かずに収入が入る」というレイの申し出に対しても、弟のディックが反対した。「誰がそんな仕事を引き受けてくれる?」レイは強い思いをこらえきれず、身を乗り出した。「では、私がやりましょう!」
レイは兄弟と契約を交わし、生涯で最高のビジネスが今後待ち受けていると信じて疑わなかった。「15セントのバーガーを売るなんて愚かだ」。そう皆に言われる中で、マクドナルド第一号店の予定地探しに奔走し、レイは自宅の近くであるシカゴ郊外のデスプレーンズに決めた。
しかし課題は山積みだった。まず、カリフォルニアとシカゴの気候の違いにより、換気と空調設備の問題に悩まされた。おまけにフライドポテトが一向にうまく揚がらない。マクドナルド兄弟の製法を完璧に真似しているにもかかわらず、カリフォルニアで味わった、あの素晴らしい品質が再現できないのだ。フライドポテトの格別のおいしさは、事業を成功させるための必須条件だと考えているため、妥協という道はない。
そこでポテト&オニオン協会に相談したところ、ジャガイモの保存方法に問題があることが発覚した。ジャガイモは乾燥によって糖分がでんぷんに変わることで、味が上がる。マクドナルド兄弟はたまたまフタのない容器に入れ、カリフォルニア特有の乾燥した空気で自然乾燥させていたのだ。同様の効果を得るべく、レイは貯蔵の際、古いジャガイモを手前に置き、巨大な扇風機で通風を良くするというアイデアを思いついた。しかも、おいしさを追求するべく、ポテトを二度揚げするという凝りようだ。こうしてオリジナルのフライドポテトの製法にたどり着いた。
また、ビジネスで完璧を求める姿勢も一貫していた。一号店の駐車場にゴミが散乱していたら、店長を怒鳴りつけた。人には取るに足らないように思える一つひとつが大事だと考えていたためだ。こうしてオープン後、一号店は順調な滑り出しを見せた。
ところが、そのころになってはじめてマクドナルド兄弟の、とある契約によって、事業は一時足止めを食らうこととなった。彼らはレイに隠れて、5000ドルという金額でフリラック・アイスクリーム社にフランチャイズ権を売っていたのだった。
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