職業として学問に専念する、すなわち学者として生活を送ろうとする場合、ドイツにおいては通常「無給講師」から始まる。学生は最低でも数年は貧乏な生活に耐えなければならないし、どうしたら十分な稼ぎを得られる地位に就けるかを知るすべもない。ドイツにおいては、経済力のない学生は学者生活を送ることができないといえる。
一方で、ドイツの「無給講師」には講義内容を決める自由があり、一度得た地位を失うことはほとんどない。また、担当する講義の数が少ないため、若いうちに十分に研究ができるという利点がある。
これに対し、アメリカでは有給の「助手」から学者としての生活が始まるため、ドイツに比べれば多少なりとも安定した地位からスタートする。
その代わりに、アメリカの助手には様々な拘束がある。教室を学生で満員にしなければ、容赦なく解雇されてしまう上に、大学の業務に追われて多忙なため、自らの研究に十分な時間を割けない。正教授ならば週3時間ほど専門分野の講義をすればよいが、助手は週12時間の講義を担当しなければならない。しかも、講義内容を自分で決めることはできず、教授会で予め立てられた講義計画に従わなければならない。
しかし、ドイツにおいても、学問の状況は次第にアメリカ的な方向に流れている。ドイツの大学にも資本主義的経営が入り込み、ちょうど工場で働く労働者のように、そしてアメリカの大学助手と同様に、助手は不安定な立場に置かれている。
さらに、無給講師や助手が正教授や研究所幹部となれるかどうかは、まるで宝くじのようなもので、運不運に左右される。才能と業績がある者でも、ふさわしい地位に就けるとは限らない。
学者という職業は、研究と教育という二面性を持つ。学者であるだけではなく、教員としても優秀でなければならない。ところが、非常に優れた学者が教員としてはまったくだめなことは珍しくない。学者の仕事と教員の仕事はまったく別ものだからである。
しかも、大学にとって一番の価値は、聴講者数の多さであるとしばしば考えられている。そのため、世界最高の学者であったとしても、学生に聴講してもらわなければ、大学の中ではその人は死の宣告を受けたに等しい。そしてまた難しいのが、教員が学生に対して行う学問的な訓練は、多くの聴講生を集められる大教室での講義ではなし得ないものであるということだ。
学問はかつてないほど専門化しているため、隣接領域に手を広げることは難しくなっている。そうした研究をしようとすると、不完全なもので終わらざるを得ない。自分の仕事を後世に残るものとするためには、ごく限定された領域の厳密な専門的研究をするしかない。
「この古文書のこの個所のこの判読に自分の魂の運命がかかっている」。そう思い込めない人は学者などやめた方がよい。あなたが学問にかける情熱は人から見たらお笑いでしかないかもしれない。しかし、それほどの情熱が持てない人は学問を職業にするのはやめ、他のことを職業とすべきである。
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