人間のもつ創造力で社会課題を解決しようとする取り組みを「ソーシャル・デザイン」と呼ぶ。このアイデアに触発された兄・聡と弟・清史は、亡き父の教えをもとに、アートスタジオ「ザ・イノウエ・ブラザーズ」を設立した。
ただし最終的な目標は明確だったものの、当初は会社の方向性がなかなか定まらなかった。そんな2人を見て、古くからの友人であるオスカ・イェンスィーニュスが、ボリビアのアルパカを用いたビジネスはどうかと提案。これがその後の2人の行く先を大きく決定づけるものとなった。
2007年にオスカの案内でボリビア視察に飛んだ聡は、土産物として売られるアルパカセーターが本来の価値を伝えきれていない様子を見て、ビジネスの可能性を感じるようになる。なによりデンマークで外国人として育った聡は、いままさに貧富の差を超えようと改革しているボリビアという国に強く惹かれた。
現地で試作したセーターを携え、聡はパリで小さな発表会を開いた。結果は散々だ。だが来てくれたバイヤーは、「ザ・イノウエ・ブラザーズ」のコンセプトに強く賛同してくれた。聡はものづくりに妥協することなく、世界一のアルパカセーターをつくろうと心に誓った。
オスカはNGOとして、アンデス地方の貧困問題に関わっていた。そのときの経験から、貧困問題を根本的に解決するには、期間が限られるボランティアだと限界があると感じていた。だからこそビジネスの力で課題を解決しようとする井上兄弟を、ボリビアへと案内したのだ。
あらためてボリビアを訪れた井上兄弟とオスカは、首都郊外にあるアルパカ製品工房や、アルパカを飼育する牧畜民たちのもとを訪れた。ボリビアの労働者は過酷な環境に置かれており、将来の展望が描けないままだ。その一方で伝統を守りながら、貧しくとも力強く生活している。物質的な豊かさや経済成長のみが幸せではなく、それぞれの土地に固有の文化があり、すばらしい生き方がある。清史は彼らとのビジネスを通じて、自分たちが忘れていた“生きる力”のヒントを見出した。
2人にはそれまでファッション業界での経験がなかったし、失敗続きや資金不足で言い争うことも多かった。そんななかにあっても、話し合うことをやめない。信じているものや正しいと思うものの根本が同じだからこそ、片方が道を逸れても、もう一方が軌道修正をして前に進んだ。
井上兄弟の父親はスタジオグラス作家として、ガラス作品で世界一の芸術家をめざしながら、44歳という若さで他界した。当時15歳だった聡は、父の遺志を引き継ぐこと、世界一であることに強くこだわるようになる。
だからこそ売り上げが伸び悩んでいた時期は、その焦りから他人につらく当たることも多かった。聡のプレッシャーを緩和するため、当初は資金面での協力に注力していた清史も、やがて活動そのものに深く関わるようになる。
“Style can’t be mass-produced…(スタイルは大量生産できない)”というコンセプトを貫きながらも、売り上げは伸ばさなければいけない。2人の困難な挑戦は続いた。
2人が大量生産や大量消費をよしとする社会に抵抗を覚えるのは、その生い立ちが関係している。
白人社会のデンマークで、2人は日系2世として育った。幼稚園時代からいじめや差別を経験したうえ、父親が若くして亡くなったことで家計的にも苦しんだ。だが苦肉の策として、清史が学校の授業でみずから着る服をつくっていると、その服が評判を呼んだ。
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