三木谷浩史(以下、三木谷)は、まったく勉強しない少年だった。小学校時代の通信簿は、5段階評価でほとんど2か3であり、5はひとつもない。中学校から高校2年生まで、通信簿は2と3ばかりだった。欠席も多く、2週間に1回は学校を休んでいた計算だ。
しかし父の良一も、母の節子も、彼の成績が悪いことをほとんど気にかけなかった。それよりものびのびと育てることを心がけた。父は、三木谷が「自分の頭で考える子」であることを理解していた。母は、本人にやる気がなければどうしようもないが、本人が何かをやりたいと言い出した時にはできる限りのバックアップをしようと考えていた。
父、三木谷良一は、世界恐慌の年である1929年、神戸市灘区に生まれた。神戸経済大学(現神戸大学)を卒業し、ハーバード大学、スタンフォード大学などを経て、1993年に神戸大学名誉教授となった人物である。
1973年、三木谷が小学校2年生の時、良一がイェール大学の研究員に就任。最初は、父が1人でアメリカに行くつもりだった。しかし、母、節子の、子どもたちにアメリカの教育を受けさせたいという思いから、家族で渡米することとなる。
三木谷が初めて登校する日、両親ともに都合がつかず、彼に付き添うことができなかった。両親に教わった「男子トイレはどこ?」というフレーズ以外、英語がまったく話せない三木谷だったが、初日に友達を作り、自宅に連れてきたという。
アメリカでも、成績はCばかりだった。それでも、英語にはすぐに慣れ、2年間のアメリカ生活を楽しんだ。日本に帰国した時には、日本語よりも英語のほうが上手なほどだった。
小学校卒業後、三木谷は、スパルタで有名な中高一貫全寮制の学校に入学した。その学校にあまり馴染めず、2年生の時に退学。地元の公立中学に編入した。地元の学校での生活を楽しんだが、勉強はせず、麻雀や競馬、パチンコに熱中する悪ガキだった。
その背中を見守っていた父、良一だが、道を正すべく三木谷にテニスを勧める。すると彼は父の狙い通りにテニスに熱中しだし、高校に入学してからも、その熱中は続いた。テニスのプロになることも考えたが、高校2年生の時の大会で優勝できなかったことを機に、大学に進むことを決意したのだった。
しかし当時、三木谷の成績は学年350人中320番だった。行ける大学があるかどうかとまで言われたほどだったが、ある先生から「今から一生懸命やれば、国公立大学でも入れる」と言われたことを励みに、夏休み明けから勉強を始めた。3年生になる頃には、神戸大学を受験できるレベルまで成績が向上していた。結局、1年浪人ののち、一橋大学に入学する。
大学卒業後、日本興業銀行に入行した三木谷は、本店外国為替部の送金セクションに配属された。経営や営業の最前線に関わる部署ではなく事務方だったが、スキームを考える仕事に、三木谷自身はやりがいを感じていたという。行内での評判も良く、ハーバードビジネススクールへの社費留学生にも推薦された。同期社員の40~50人が留学生を決める試験を受けたが、三木谷1人が留学生に選ばれた。学生時代から、海外留学を夢見てコツコツと英語の勉強を続けていた彼の夢が叶った瞬間だった。
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