ピーター・ティールはリバタリアン(自由至上主義者)である。その原点はティールが6歳の時にさかのぼる。
ティールはドイツで生まれ、米国に移住したのちに、アフリカの小さな港湾都市に移り住んだ。そこでティールは規則に縛られた、厳格な学校へ通うことになる。生徒に制服を着用させ、答えをまちがえた生徒の手の甲を定規で叩くような学校だ。みずからの意思に反して、画一性と規則のなかにムリやり押しこめられることに、ティールは嫌悪感を覚えたという。
その後ティール一家は米国へ戻り、スタンフォード大学の北にあるフォスターシティに移り住んだ。アップルⅡが大ヒットし、パーソナルコンピュータが誕生したのはこの頃で、ティールが10歳のときだった。当時のシリコンバレーは戦後期の中産階級にとって、出自や宗教にとらわれない平等で快適な場所だったと、のちにジャーナリストのジョージ・パッカーは綴っている。
ティールはみずからの学歴を「模範的」だと非難めいて話す。まさしくそのとおり、彼は世間一般的なエリートコースをたどった。大学は自宅から近いという理由で、スタンフォード大学へ進学。専攻は哲学である。
スタンフォード大学は当時すでに、コンピュータ科学の分野で世界的に高い評価を得ていた。しかもティールは、チェスの13歳未満の部門で全米7位に入ったことがあるほどの数学的才能の持ち主である。だが彼が選んだのは哲学だった。そしてこの選択が、ティールにとって重要な出会いをもたらした。
そのひとつが、リンクトインの創業者リード・ホフマンとの出会いである。2人はなにが真実かということについて、講義後によく議論した。
もうひとつの出会いは、スタンフォード大学の教授であり、著名なフランス人哲学者でもあるルネ・ジラールだ。ジラールの思想はティールの人生観だけでなく、ビジネスや投資判断にも多大な影響を与えた。それは「人間には他人が欲しがるものを欲しがる傾向があり(模倣理論)、それが競争を生み、競争はさらなる模倣を生む」というものだった。ティールはジラールから、起業家や投資家の本質を学んだのだ。「人は、完全に模倣から逃れることはできないけれど、細やかな神経があれば、それだけでその他大勢の人間より大きく一歩リードできる」とティールは語っている。
大学卒業後、スタンフォード・ロースクールに進学し、法務博士号を取得したティール。その最初の職場は連邦控訴裁判所だった。その後ティールは法学部生にとって憧れのポストである連邦最高裁判所事務官への切符を手に入れるものの、残念ながら不採用になってしまう。それは優秀な成績でエリートコースをひた走ってきたティールにとって、青天の霹靂ともいえる結果だった。
それからニューヨークの大手法律事務所に職を得たティールだったが、そこでの日々についてはいまも快く思っていない。昇格のために長時間労働を余儀なくされ、身を粉にして働く環境だ。たしかに誰もがうらやむエリートの世界ではあったが、ひとたび立ち入れば、とたんに脱出したくなる牢獄のようだったという。
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