三十路になり、故郷を捨てて山に入ったツァラトゥストラは、それから十年のあいだ孤独を楽しんで飽きることがなかった。しかしあるとき心が変わり、太陽にこう語りかけた。
わたしは知恵を贈りたい。分け与えたい。知者たちが己の無知に気づくまで。貧者たちがふたたび己の豊かさに気づくまで。そのためにわたしは低いところへと下っていかなければならない。
こうしてツァラトゥストラの没落は始まった。
山を下り、森に入ると白髪の老人に出会った。老人はツァラトゥストラを止めようとした。人間に何も与えるな。世捨て人が贈り与えるためにやってくるなど彼らは信じない。人間たちのとこへなど行かず、森にとどまるべきだというのだ。
ツァラトゥストラは尋ねた。「それで、聖者たるあなたは、森のなかで何をしているのですか」。聖者は答えた。「歌い、泣き、笑い、呻いて神を讃えている。ところで、君はわれわれには何を贈ってくれるのか」。
ツァラトゥストラは「何もありません。すぐに立ち去らせてもらいます。あなたがたのものをわたしが取ったりせずにすむように」と言って立ち去った。そして一人になったとき、己の心にこう言った。「こんなことがあっていいものだろうか。この老いた聖者は、森のなかにいて、まだ何も聞いてはいない。神は死んだ、ということを――」。
森のはずれにある最初の町に着いたとき、多くの人が綱渡り舞踏家を観るために市場へ集まっていた。そこでツァラトゥストラは超人についての演説を始めた。
「わたしは諸君に超人を教える。人間とは克服されなければならない何かである。おのれ自身の幸福を軽蔑し、理性を軽蔑し、徳を軽蔑し、正義を同情を軽蔑せよ。そうすることによって身をもって生きることができる」。しかし群衆は耳を貸さなかった。
綱渡り舞踏家が芸にとりかかったとき、ツァラトゥストラはこう語った。人間は綱だ、動物と超人とのあいだに掛け渡された――深淵の上に掛かる、一本の綱だ。
ふたたび群衆を眺めると、ツァラトゥストラは思った。彼らはわたしを理解しない。わたしは彼らの耳のための口ではない。彼らはみずからを軽蔑すべきだなどと語られるのを嫌う。では彼らの誇りに訴えかけよう。もっとも軽蔑すべき者、「最後の人間」について語ろう。そして語りだした。
「僕らは幸福を発明した」――最後の人間はそう言ってまばたきする。彼らは隣人を愛する。温もりが要るから。彼らはときどきわずかな毒を飲む。心地よい夢が見られるから。彼らは働きもする。労働はなぐさめになるから。身体をこわさないように気づかいながら、小さな昼の快楽、小さな夜の快楽を享受する。「僕らは幸福を発明した」――最後の人間はそう言って、まばたきする。
唐突にツァラトゥストラの演説は終わった。群衆がそれを遮ったからだ。彼らは「俺たちをこの最後の人間にしてくれないか。超人はお前にくれてやる!」と叫んだ。
ツァラトゥストラは悲しみ思った。「彼らはわたしを理解しない。わたしはこの耳のための口ではない」。
しかしそこで何かが起きた。市場と群衆の真上、二つの塔のあいだに張られた綱を綱渡り舞踏家が渡りはじめ、ちょうど半ばまで来たときのことだ。道化がその後方から飛び出してきたのである。道化は綱の上を足早に進み、「進めよ、のらくら野郎!」と怒鳴りながら綱渡り舞踏家を追いかけたかと思うと、悪魔のような叫び声をあげて彼を飛び越した。綱渡り舞踏家は動揺して足を踏み外し、一直線に地上へと墜ちた。群衆は我先にと逃げだしていく。
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