アメリカ西部開拓時代、未開の地であったフロンティアは爆発的な人口増加を遂げた。たとえば1790年のアパラチア以西の入植者人口は約11万人だったが、1920年には6200万人まで増加。1830年に1000人程度だったシカゴは、のちの90年で270万人にまで膨れ上がった。この人類史上例を見ない爆発的な成長はどのように起こったのか。
19世紀における開拓地の急成長は、「ブーム(にわか景気)」「バスト(恐慌)」「移出救済」という、周期的に訪れる3つの段階による産物といえる。これは大まかに以下の流れを辿る。
まずフロンティア地域でブームが5~10年続き、そのあいだに人口は少なくとも倍増する。フロンティアには商品、資本ともに入りの方が多いため、市場も活性化する。
だがその後、バストが訪れる。成長率は大きく落ちこみ、農場や企業の大半が倒産する。
最後の移出救済の段階に入ると、過去の残骸から新たな社会経済が創造され、経済は緩やかに回復する。だが成長スピードはブームと比べるとかなり遅い。このときフロンティアと大都市の関係はより密になる。
アメリカ西部をはじめとした開拓地の大半は、このサイクルを少なくとも一度は経験している。
ブームの時期に入ると、ヒト、お金、情報、スキルが都市部からフロンティアへ大量に移動する。そのため船や鉄道などの輸送手段を始めとした、巨大なインフラ産業が生み出される。たとえば1850年代にアッパー・カナダで進められた鉄道建設には、男性労働者の約15%が直接関わっていた。また人口増加にともなう住宅建築や街の整備のため、木材調達も必至。林業も盛んであった。さらに先住民と欧州入植者の戦いもブームの一角を担い、フロンティアではあちこちに砦が築かれ、戦争への莫大な投資がなされた。
次に来るバストでは、物価・賃金ともに下落する期間が2~10年継続する。1819年のバストの際は、アメリカで10年のあいだに設立された何百もの単一銀行のうち、半分が消滅した。またカナダ沿海州の一部地域では、1840年代はじめのバストによって、多くの町がゴーストタウン化している。
移出救済の段階にくると、インフラができあがり輸送技術も進歩する。ニューヨークが1900年に世界最大の都市になったのは、インフラ整備により大量の移民がフロンティア奥地へ到達できるようになったことが大きい。加えて都市住民が食料などの必需品をフロンティアに求め、それにフロンティアが対応するという「利害関係の結合」が発生。その結果、アメリカ合衆国全体の一体感が築かれた。
アメリカへの移民の爆発的増加には、1815年頃に始まった「3つのシフト」も大きく関わっていると考えられる。ここでいう3つのシフトとは、ナポレオン戦争の終結、モノの移動の増加、そして入植者の地位向上のことだ。
1815年にナポレオン戦争が終結し、欧州では125年に渡る戦争に終止符が打たれ、イギリスとアメリカの40年に渡る対立も終わった。戦争は欧州を大きく動揺させたが、英語圏にはプラス効果もあった。アメリカでは戦争をきっかけにプロト工業化が進み、金融機関や国際貿易が発達。イギリスは工業化を成功させ、海上の覇者としての地位を不動のものとした。
またテクノロジーの発達により、モノの移動が増加した。これにともないヒトや情報、マネーの移動が促され、開拓地でのブームにつながっていく。
「植民」に対するイメージも大きく変わった。
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