ヒット曲の料理人

編曲家・萩田光雄の時代
未読
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編曲家・萩田光雄の時代
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ジャンル
出版社
リットーミュージック

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出版日
2018年06月11日
評点
総合
3.7
明瞭性
4.0
革新性
3.5
応用性
3.5
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おすすめポイント

カラオケ屋で歌っているメロディーは、作曲家が作ったもの。それ以外に鳴っているすべての音楽を作るのが、編曲家の仕事である。日本の歌謡曲の発展を支えた、陰の立役者というと、萩田光雄氏という編曲家の名が挙がるだろう。「異邦人」「木綿のハンカチーフ」「プレイバックPart2」。こうした誰もが知る名曲を編曲した萩田氏の半生が本書で明らかになる。

萩田氏は、歌謡曲全盛の70年代から80年代、斬新かつその歌手に合ったアレンジを導き出し、次々にヒット曲を生んだ。アレンジした楽曲数は4000を越える。萩田氏自身の語りと関係者へのインタビューによって、多彩な作品が生まれた時代背景や音楽に関わる人々の尽力を知ることができる。

特に注目したいのは、ヒット曲の陰に存在している、大勢の裏方の人びとの仕事ぶりだ。1つの楽曲を作るには、作詞家、作曲家、編曲家、ディレクター、ミュージシャンなど、実に多くの人びとが関わっている。この時代に、子どもから大人まですべての人が口ずさめる名曲が数多く誕生した。これはひとえに、楽曲を生み出してきた人々のプロ意識のたまものといえるのではないだろうか。時代の空気や流行を取り入れながらも、音楽的な美を追求しつづけた萩田氏の姿勢は、音楽業界で働く者でなくとも学ぶ点が多い。

現在の音楽シーンの基盤を固めた歌謡曲の裏側を知れば、なつかしの音楽を、新たな視点で聴きたくなること間違いなしである。

ライター画像
菅谷真帆子

著者

萩田 光雄(はぎた みつお)
1946年生まれ。1965年、慶應義塾大学工学部電気科入学、同大学クラシカルギタークラブに在籍。のちにヤマハ音楽振興会作編曲コースで林雅彦氏に師事、同社録音スタジオ勤務の後、作編曲家を目指す。1973年、高木麻早「ひとりぼっちの部屋」の編曲でデビュー。その後、編曲家として目覚ましい活躍をとげ、1975年、FNS音楽祭最優秀編曲賞を始め、1975年、1976年、2013年に日本レコード大賞・編曲賞を受賞。45年間にわたり、ポピュラー音楽界第一線の編曲家として活躍。ポップス、映画、アニメなど作曲作品も多数、ミキシングエンジニアとしてのクレジットも多い。現在、日本作編曲家協会常任理事、JASRAC編曲審査委員会委員長。

本書の要点

  • 要点
    1
    編曲家は、作曲家が作ったメロディーにイントロや伴奏を付け、曲全体のサウンドを生み出す。歌謡曲における「料理人」といえる存在だ。
  • 要点
    2
    昭和の時代には、編曲家はディレクターの意図を汲み取り、ミュージシャンなどのスタッフと意思疎通をはかりながら、音楽全体の印象を決めるにあたって大きな役割を果たしていた。
  • 要点
    3
    商業音楽に携わる者の使命は、音楽的な曲の美しさとマーケットを意識しながら、なるべく多くの人に好まれる曲を作ることである。

要約

編曲家として走り出す

生い立ち
ToL_U4F/gettyimages

1946年、疎開先の福島県で生まれた萩田は、幼少のころから楽器を習っていたわけではなかった。一家が移転した埼玉県の中学校にて音楽の先生に頼まれ、リズムをつくる打楽器と、低音を担当するチューバを経験した。これが後の音楽人生に影響を与えた。これら2つの楽器の演奏はドラムとベースを体験するのと同じであり、後でコードを理解するのに役立ったという。

高校時代、ウクレレとギターを手にした萩田は、音楽を聴きながらいじるうちに自然と和声学(コードの規則性)を学んでしまった。大学ではクラシカルギタークラブに入部。ある時バッハの管弦楽組曲第2番を5人用に編曲することとなる。萩田は譜面を書いて渡したが、いつから譜面をかけるようになったかはわからないという。

時代は60年代後半。萩田は当時、デューク・エリントンの曲をアレンジしたベンチャーズの「キャラバン」という曲に衝撃を受けた。アレンジした曲とあまりに違ったからだ。これ以来、萩田はアレンジをする際は、楽曲の切り口に関するアイデアを何よりも大切にしているという。

萩田が音楽の道に進んだきっかけは、22歳の時、音楽雑誌の作曲コンクールで1等賞をもらったことだった。父親も受賞を喜び、何でもいいから1番になれ、と背中を押してくれた。萩田は「音楽の道に進む」という決心を固めた。

ヤマハでの習作時代

24歳になった萩田は、ヤマハの音楽振興会の作編曲コースに入学し、音楽理論を学んだ。入学当初はポップスオーケストラのようなことをやりたいと思っていた。だがコース終了後に、録音スタジオのアルバイトの声がかかり、これが後のチャンスにつながる。

そのころヤマハでは、ポピュラーソングコンテスト、通称ポプコンが始まっていた。萩田は最初、オープンリールのデッキから、いわゆる耳コピでバンドのコピー譜を作る仕事をしていた。「あんなに耳がいいのなら、アレンジもできるだろう」。そう思われたからか、ポプコンのアレンジも任されるようになる。この音源は商業用ではなかったため、「こうしてほしい」といわれることもない。売れるかどうかを気にせず、自由にアレンジができた。

その後萩田は、放送用のアレンジを経験した。レコードとして初めて世に出たのは岩淵リリの「日曜日の午後」。だが、その後すぐ出た高木麻早の「ひとりぼっちの部屋」がヒットし、世に認められる作品となったため、後者をデビュー・アレンジとした。この曲はスティール・ギターのイントロが約1分もあり、当時のアレンジの自由度をうかがわせる。

やがて萩田はヤマハの嘱託職員を離れ、フリーのアレンジャーとなる。ヤマハ時代はアレンジャーとして実践訓練を積んだ、習作時代と呼べる。

歌謡界の最前線に躍り出た怒涛の70年代

太田裕美、山口百恵作品
avdyachenko/gettyimages

萩田はヤマハ時代から外部の仕事を受けるようになっていた。きっかけは、インペグ屋(レコーディングのためにスタジオ・ミュージシャンをコーディネイトする会社)の広能達雄の紹介だった。音楽業界の情報通たちのおかげで、だんだんと仕事が広がっていった。

つづいて、作曲家の筒美京平との縁で、萩田は南沙織、太田裕美などのアレンジを手掛けた。太田裕美の「木綿のハンカチーフ」は、歌詞が4番まである長いもので、ストーリーになっている。そのため、スピード感を出そうと工夫を凝らした作品だ。この曲は元々アルバム用だったが、シングルとして世に出ることになり、多くの人に聴かれることとなった。この仕事を萩田は40年たった今でも誇りに思っているという。

山口百恵の「プレイバックPart2」では、プロデューサーの強い要望により斬新なスタッカートのアレンジを施した。山口百恵の曲で「なぜこんなアレンジになっているのか?」と思われるところがあるかもしれない。これは、プロデューサーの無理な要望を、ディレクターである川瀬泰雄、金塚晴子と頭を悩ませながら考え抜いた結果だ。シュールな発想を編曲で反映せざるを得ない状況で、戦い抜いて生まれたのが山口百恵の作品である。

久保田早紀作品

久保田早紀の作品を手掛けるようになったきっかけは、彼女をデビューからスターにするというミッションで始まったプロジェクトだった。

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要約公開日 2018.11.03
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