1946年、疎開先の福島県で生まれた萩田は、幼少のころから楽器を習っていたわけではなかった。一家が移転した埼玉県の中学校にて音楽の先生に頼まれ、リズムをつくる打楽器と、低音を担当するチューバを経験した。これが後の音楽人生に影響を与えた。これら2つの楽器の演奏はドラムとベースを体験するのと同じであり、後でコードを理解するのに役立ったという。
高校時代、ウクレレとギターを手にした萩田は、音楽を聴きながらいじるうちに自然と和声学(コードの規則性)を学んでしまった。大学ではクラシカルギタークラブに入部。ある時バッハの管弦楽組曲第2番を5人用に編曲することとなる。萩田は譜面を書いて渡したが、いつから譜面をかけるようになったかはわからないという。
時代は60年代後半。萩田は当時、デューク・エリントンの曲をアレンジしたベンチャーズの「キャラバン」という曲に衝撃を受けた。アレンジした曲とあまりに違ったからだ。これ以来、萩田はアレンジをする際は、楽曲の切り口に関するアイデアを何よりも大切にしているという。
萩田が音楽の道に進んだきっかけは、22歳の時、音楽雑誌の作曲コンクールで1等賞をもらったことだった。父親も受賞を喜び、何でもいいから1番になれ、と背中を押してくれた。萩田は「音楽の道に進む」という決心を固めた。
24歳になった萩田は、ヤマハの音楽振興会の作編曲コースに入学し、音楽理論を学んだ。入学当初はポップスオーケストラのようなことをやりたいと思っていた。だがコース終了後に、録音スタジオのアルバイトの声がかかり、これが後のチャンスにつながる。
そのころヤマハでは、ポピュラーソングコンテスト、通称ポプコンが始まっていた。萩田は最初、オープンリールのデッキから、いわゆる耳コピでバンドのコピー譜を作る仕事をしていた。「あんなに耳がいいのなら、アレンジもできるだろう」。そう思われたからか、ポプコンのアレンジも任されるようになる。この音源は商業用ではなかったため、「こうしてほしい」といわれることもない。売れるかどうかを気にせず、自由にアレンジができた。
その後萩田は、放送用のアレンジを経験した。レコードとして初めて世に出たのは岩淵リリの「日曜日の午後」。だが、その後すぐ出た高木麻早の「ひとりぼっちの部屋」がヒットし、世に認められる作品となったため、後者をデビュー・アレンジとした。この曲はスティール・ギターのイントロが約1分もあり、当時のアレンジの自由度をうかがわせる。
やがて萩田はヤマハの嘱託職員を離れ、フリーのアレンジャーとなる。ヤマハ時代はアレンジャーとして実践訓練を積んだ、習作時代と呼べる。
萩田はヤマハ時代から外部の仕事を受けるようになっていた。きっかけは、インペグ屋(レコーディングのためにスタジオ・ミュージシャンをコーディネイトする会社)の広能達雄の紹介だった。音楽業界の情報通たちのおかげで、だんだんと仕事が広がっていった。
つづいて、作曲家の筒美京平との縁で、萩田は南沙織、太田裕美などのアレンジを手掛けた。太田裕美の「木綿のハンカチーフ」は、歌詞が4番まである長いもので、ストーリーになっている。そのため、スピード感を出そうと工夫を凝らした作品だ。この曲は元々アルバム用だったが、シングルとして世に出ることになり、多くの人に聴かれることとなった。この仕事を萩田は40年たった今でも誇りに思っているという。
山口百恵の「プレイバックPart2」では、プロデューサーの強い要望により斬新なスタッカートのアレンジを施した。山口百恵の曲で「なぜこんなアレンジになっているのか?」と思われるところがあるかもしれない。これは、プロデューサーの無理な要望を、ディレクターである川瀬泰雄、金塚晴子と頭を悩ませながら考え抜いた結果だ。シュールな発想を編曲で反映せざるを得ない状況で、戦い抜いて生まれたのが山口百恵の作品である。
久保田早紀の作品を手掛けるようになったきっかけは、彼女をデビューからスターにするというミッションで始まったプロジェクトだった。
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