いまから500年ほど前、イタリア商人はさかんに東方貿易を行っていた。東方貿易は、香辛料・ワイン・茶・陶器・織物を中国やインドからイタリアへ持ってきて、それらをヨーロッパ各地へ運ぶというものだった。
イタリア商人は東方貿易によって大いに儲けたが、海路の道のりは危険だった。海賊に襲われる危険があったからだ。当然ながら、行動範囲が広がれば広がるほど、扱う金額が大きくなればなるほどその危険は大きくなった。
そのリスクを軽減するためにバンコ(銀行)が提供したのが、「為替手形」取引である。為替手形の登場によって、商人たちはキャッシュレスで取引できるようになった。
商人は、商品の仕入れ、販売、為替手形の受け渡しの記録をつける必要があった。同様にバンコも、融資や回収、為替手形の発行や決済といった取引記録を付け、その記録を他の支店にも共有しなければならない。こうした背景から、中世イタリアで簿記の技術が誕生した。このころ、ヨーロッパ経済の中心はイタリアにあったのだ。
当時、トップ・バンコの座についていたのがメディチ銀行である。メディチ銀行は、ロンドン、ブリュージュ、リヨン、バルセロナ、ジュネーブなどヨーロッパ各地に拠点を持っており、顧客からするとそのネットワークの広さが魅力であった。商人たちはメディチ銀行のネットワークを利用して、ヨーロッパ各地でキャッシュレス取引を行っていた。
メディチ銀行にとっては、ネットワークを拡大すればするほど、支店を管理する必要が生じる。この時代に電話やインターネットはない。メディチ銀行が遠隔地の支店を管理するために取った方法は、本部を権限に集中させることをやめ、各支店に分権化させることだった。支店の支配人に経営権限の大部分を委譲し、フィレンツェ本部は支店経営や与信管理にはほとんどかかわらないしくみを取っていた。フィレンツェ本部は、支店新設の判断などといった大きな問題に専念していたという。
支店の支配人は大きな経営権限を持っていたが、その活動の詳細を帳簿へ記入することが義務づけられ、帳簿を手に定期的にフィレンツェ本部を訪ねていた。帳簿があったからこそ、フィレンツェ本部は各拠点に経営を任せることができたのだろう。
ヴェネツィアの船乗りたちはプロジェクトごとに人と資金を集めていた。プロジェクトが終わると儲けを現金化し、メンバーも解散するというしくみだ。しかしこれだと1度の航海ごとにゼロからやり直さなければならず、無駄が生じてしまう。
彼らはやがて、
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