2016年9月28日、著者の人生に激変が起きた。ユーチューブにアップしていたピコ太郎の動画「PPAP」をジャスティン・ビーバーが「My favorite video on the internet(僕の好きなネット動画)」とツイート。全世界にいる1億人のフォロワーが一斉に「PPAP」の動画を見始め、バズが起きたのだ。
バズをきっかけに、CNNやBBC、そして世界中の報道機関が「PPAP」を紹介した。ピコ太郎は米ニューヨークの国連本部でPPAP「SDGs」verを披露し、ウガンダ共和国の大統領と会談、さらにはトランプ大統領と安倍首相との3ショットを撮影するなどグローバルに活動することとなった。
「PPAP」はわずか10万円で作られた動画だ。著者は20年にわたって、プロデューサー、テクノDJとして音楽を追求してきた。その集大成としてスタジオを借り、6時間で完成させたのが「PPAP」だった。
本書では、お笑い芸人として仕事を始めた著者がいかに「ピコ太郎」を作り、バズらせたのかが明かされる。
青森市に生まれた著者は、ビートたけしにあこがれ、オリジナルコントを作って友達に披露する少年だった。チャンスが訪れたのは中学2年生のとき。山田邦子さんの「スター生たまご・邦子の今ドキ芸能界」という番組のオーディションが青森にやってきたのだ。番組でショートコントを披露したところ予選通過、さらには東京の大会収録で優勝することができた。高校に進学したのちもコントを作り続け、高校を卒業すると、お笑い芸人を目指して上京した。
渡辺正行さんが主催する「ラ・ママ新人コント大会」や「太田プロライブ」など、新人向けのお笑いライブにチャレンジする中で、芸能事務所からスカウトを受ける。そして19歳のとき、お笑いトリオ「底ぬけAIR-LINE」を結成した。
だが、東京でウケを取るのは容易ではなかった。同世代には、くりぃむしちゅーやネプチューンのような大物がひしめいていたからだ。トリオの仲間と話し合った結果、「音楽コント」というニッチなジャンルで勝負することにした。最新式のパソコンを購入し、音楽を研究。本物のドラムやシンセでバスドラムの重低音を録音し、ベースシンセを鳴らしてライブのオープニングテーマを自作していた。
本格的な音楽活動を開始したのもこのころだ。自分が作った音楽をベースにした音楽ライブを主催し、出演していた。
なぜ、「PPAP」は流行したのか。著者は、「意味がなくてくだらなかったから」と分析している。「PPAP」は、愛も恋も、戦争反対も、人生も語っていない。ただ、ペンとアッポーとパイナッポーを刺して並べただけだ。
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