著者は1922年に生まれ、広島市南区宇品(うじな)で育った。父の収入は安定せず、母は病弱で、暮らし向きは楽ではなかったという。なんとか家計を助けようと、朝は新聞配達をしてから学校に行き、放課後はシジミやアサリの行商をしていた。
行商では、主婦たちに毎日買ってもらうために「シジミに~ハマグリ~、アサリ~」といった売り声のリズムや語呂を工夫したり、売りに行く時間を固定したりしていた。今思うとこのとき、主婦たちを相手に「欲しいものを欲しい人に届ける」という商売の基本を学んだのだろう。
成人すると、海軍に入隊。偶然が偶然を呼び、すんでのところで命拾いしたあと、終戦を迎えて広島に帰った。広島は一面焼け野原になっていたが、駅前のヤミ市は活気に溢れていた。その光景を見ていると、かつてアサリやシジミを売り歩いたことが記憶から蘇った。また人々の欲しがる物、必要な物を売れば、ここで生きていけるかもしれない――そう思ったのだ。
著者は、海軍にいたときの戦友の家で作っていた干し柿を譲ってもらい、売ることにした。当時、甘みは貴重だったので、飛ぶように売れたという。
干し柿の露店は1年も経たずに閉め、衣料品の店を出すことにした。戦争直後は何より食べ物が必要とされたが、やがて衣料品が求められるようになると考えたからだ。最初は何でも扱う小売だったが、だんだんと衣料品の卸問屋としての取引を大きくしていった。
1950年には卸問屋を株式会社化して「株式会社山西商店」にした。1953年には、4度目の移転として、広島駅のすぐ近くの一等地に店舗を移した。これは、現状に安住するのではなく、自分で自分を追い立てて商売に邁進したいという想いからだった。
元来、卸問屋は仕入れ以外にあまり動かないものだった。だが著者は、問屋であっても営業に出て、外販を試みることにした。お客がやって来るという、旧態依然としたスタイルに疑問を感じていたからだ。問屋として生き延びるには、小売業である顧客を開拓し、できるだけ長い付き合いを続けるしかないとも考えた。
著者はそこからさらに一歩踏み込み、メーカーの製品を仕入れて提供するだけでなく、自分のところできちんと納得できる製品を作りたいと考えるようになった。
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